山本周五郎の世界観

青べか物語

山口瞳山本周五郎ということで、最近目に触れた山口さんの文章に、こんなエピソードが紹介されている。

向田邦子山本周五郎を認めなかった。そのことについて話しあったことはないけれど、山本周五郎におけるある種の甘さとか妥協を嫌ったのではないかという気がしている。(「木槿の花(七)」、新潮文庫版『男性自身 木槿の花』所収、同『山口瞳男性自身傑作選 老年篇』再収)
向田邦子さんが山本周五郎を嫌った理由は永遠の謎となった。これを読むかぎり山口さんご自身もまた山本周五郎にこうした点(「ある種の甘さとか妥協」)を感じていたということになる。いったいどういう意味なのだろう。
山本周五郎を読み年齢を重ねればわかることなのだろうか。あるいは向田さんは『小説日本婦道記』に見えるような女性像に反撥を感じたのかもしれない。いずれにせよ、いまの私にとっては、山本周五郎を嫌う理由はどこにもない。
青べか物語』のなかで、主人公の思考を借りて展開されている“世間は広い”という論理には、山本作品を解く鍵がひそんでいるように思われる。
出会った人間同士が予想もしなかったような縁でつながっていたという偶然に驚くことがある。そのとき「世間は狭いなあ」と口に出る。主人公はこの論理を裏返して、実は世間は広いから人間の縁が重なり合うのだと結論づける。
私は私の人生をもち、彦山夫人には婦人の座標がある。留さんも同じことであって、おのおのはその人生の座標に即いて生きている。平行線は相交わらない、というのはユークリッドの定理だったろうか。これに対して「しかし無限大の空間においては相交わる」という非ユークリッド定理がある。つまり、世間が広大であるからこそ、それぞれの座標をもった三人がめぐりあう機会も生まれる、というわけである。(「留さんと女」)
世間が狭ければ各々の座標をもつ人間が交わる可能性は低い。広いからこそ交わる可能性が生じる。論理的であるが、騙されているような気もする。ただ一つ言えるのは、山本周五郎はこうした各人の座標やそれらが交わる世間について想像できたということだ。でないとあのような作品は生み出されない。