山本周五郎の浦安、山口瞳の国立

青べか物語

山本周五郎の代表作に数えられる青べか物語*1新潮文庫)を読み終えた。主人公たる私(蒸気河岸の先生)が、東京近郊の漁師町浦粕に滞在した日々を、地元の人々との交流のエピソードを軸につづった連作短篇集である。
浦粕とは現千葉県浦安市のこと。東京ディズニーランドで賑わう都市浦安は、もともと利根川(物語では根戸川)の河口デルタに広がる湿地帯に接しており、のどかで猥雑な田舎の漁師町であった。
「青べか」とは、浦粕の町を移動したり、沖に出て漁をするのに使われる「べか舟」のことで、物語の冒頭で主人公は地元の老人芳爺さんに青ペンキの剥げかかったべか舟を売りつけられる。
年譜(新潮文庫『小説日本婦道記』所収)によれば、山本周五郎が浦安に滞在したのは昭和3年(1928)のこと。このときの体験をもとに、三十数年後の昭和36年になって書かれたのが本作である。
末尾に配される「三十年後」という短篇では、三十数年を経て浦粕を再訪したときのことが記されている。滞在時に何かと主人公に地元の人々の情報を提供してくれた小学生の「長」とこのとき再会するが、長のほうではすっかり「蒸気河岸の先生」の存在を忘れてしまっていた。
長ばかりではない。エピソードに登場する人々もまたことごとく自分のことを憶えていない。浦粕滞在の思い出を鮮明に憶えている主人公(=山本周五郎)と地元の人々との落差は大きい。
浦粕の町は漁師町ゆえか、外部の人間に対する排除の意識が薄い。共同体的関係が比較的ゆるやかである。夫婦の関係すらゆるやかで、妻が夫以外の男とできても、せいぜい町の人の噂の種になる程度。よくあることなのだ。だから蒸気河岸の先生がふらりと町に住みついても異分子排除の論理が働かず、安穏に生活を営むことができた。
異分子排除というエネルギーが働かないゆえに、蒸気河岸の先生が滞在した時間は町の人々にとって非日常ではなく、日常と何ら変らないのである。忘れられたのもそのためだろう。
山本周五郎作品にはまり『青べか物語』を購入してからそろそろ一ヶ月が経とうとしている。たぶんこのあとだったと思うが、偶然池袋の新文芸坐で本作を原作とした「青べか物語」が上映されることを知った。この映画を観るまでに原作を読もうとしたが、半分足らずまで読み進めたところでタイムオーバーとなってしまった。
読みさしのまま映画を観た印象では、原作のエピソード主義をかなり忠実に映像化した秀作というものだ。
森繁久彌の先生、芳爺が東野英治郎、このほかフランキー堺市原悦子・中村メイ子・池内淳子千石規子乙羽信子山茶花究桂小金治小池朝雄左幸子丹阿弥谷津子左卜全ら、いまでは豪華キャストとしかいいようがない名優たちによって、猥雑な浦粕の町の活気が再現されている。
映画のなかで強烈な印象を与えられた、左卜全の老船長による語るも涙のはかない恋の物語、乙羽信子山茶花究による夫婦愛の物語は未読部分にあたっていた。映画を観たあとでは、もはや映像のイメージが、文章からイメージを形成する想像力を支配してしまうのは致し方ない。前者は「芦の中の一夜」、後者は「家鴨」という短篇になっている。
本書を読んでどうしても思い出されるのは、山口瞳さんの作品群、とりわけ国立の人々との交流を描いた『わが町』(角川文庫)のような作品であった。山口さんは山本周五郎に師事し、『青べか物語』は十何回も読み返しているという。山本周五郎にとっての浦粕は山口瞳にとっての国立である。
と思っていたら、このことはすでに中野朗さんの指摘があることを知った。「くにたちを愛した山口瞳展レポート」のなかで中野さんは次のように書いている。

考えてみると、山口瞳氏が国立を舞台にした「わが町」をお書きになったのは、昭和43年の4月からである。国立暮らしを始めて4年後のことだ。タクシー会社の野球部の監督になり、一緒に練習をしたり、酒を飲んだり、沢蟹を捕りに行ったりしながら、国立の住人として根を下ろしている山口瞳氏を見ることができる。私は密かにこの作品は山口瞳氏の「青べか物語」だと思っている。日常のなかで接するごく普通の人たちの交流を通して、交友の輪が自然と広がっていったのではないだろうか。
そう、まさに『青べか物語』は山口さんのなかに息づいていたのである。
もっとも、国立・浦粕という町柄の違い、共同体のあり方、主人公の共同体への関わり方など、細かく検討すれば二つの作家の資質の相違が際だつものと考えられる。