カバー論

ブックカバーと言ってしまうと、本を購入したときに書店でかけてくれるカバーだったり、文房具屋などで売られている皮・布・紙製のカバーの意味合いにとられてしまう。ここでは同じカバーでも、本にもとからかかっているカバーのことについて書きたい。
函入の本が少なくなったいま、カバーは「本の顔」といってもいい。書店に平積みされているカバーのデザインに目がとまり、購入のきっかけになる場合もあれば、シリーズで統一されているデザインをずらりと並べて一人悦にいるときもある。
古本の場合ヤニほかの汚れがカバーにこびりついていることがある。古本屋でバイトをしていたとき、この汚れは布切れ(肌着の切れのようなもの)にマジックリンをちょっとつけてさっと吹くと綺麗に取れた。個人的にはウェットティッシュを使う。これもよく汚れが取れる。
ただこの場合はカバーがビニール・コーティングされているものという条件がつく。コーティングされていない本だと逆にこの方法は汚れを広げてしまう。
環境ホルモンなのか経済的問題なのか、カバーのビニール・コーティングをやめてしまった文庫もある。河出文庫・福武文庫がそうだ。同じシリーズを長く買い続けているようなとき、このような方針変更はまことに迷惑千万である。
河出の澁澤龍彦の文庫本を例にとると、1998年4月に出た『ねむり姫』と同年7月刊行の『暗黒のメルヘン』がその境目にあたる。
福武は内田百間のシリーズを例にとると、93年5月の『阿呆の鳥飼』と同年7月の『出船の記』が境目である。ついでにいえば、スピン(栞紐)を備えていたのは92年3月の『贋作吾輩は猫である』まで。同年5月の『新方丈記』以降スピンがなくなっている。
対して文春・講談社両文庫はその逆だ。以前はコーティングしていなかったが、このところの新刊はコーティングが施されている。文春の場合戸板康二さんを例にとると、87年4月(『新々ちょっといい話』)と同年11月が境目、講談社の場合検証するための適切な著者(シリーズ)を得ないが、97年5月に出た幸田文『月の塵』は非コーティング、対して98年4月刊娘青木玉さんの初文庫化作品『小石川の家』は被コーティングである。
文春・講談社の例を考えると、コーティングの有無は製本経費節減に直結するわけでもなさそうである。やはり環境ホルモンの問題なのだろうか。
そもそも岩波文庫のようにもともとカバーなしだったのが、近年になってカバーが付けられはじめた文庫すらある。私が大学生になったときあたりまで(80年代後半)は、新刊はまだしも、復刊文庫にはカバーはなく、パラフィン紙がかけられていたのではなかっただろうか。
岩波文庫の多くは段ボール箱にしまわれたままで、いま確かめるすべはないが、たとえば89年に重版された荷風の『珊瑚集』はカバーでなくパラフィンがけである。新刊として87年に出た同じ荷風の『摘録断腸亭日乗』にはカバーがかけられている。これも調べてみれば一種の歴史的推移を描くことが可能だろう。
コーティングの有無という点に話を戻せば、ブックオフなど新古書店で多く採用されている値札表示シールはまことに厄介である。非コーティング文庫からこれを剥がそうとすると失敗することがある。
失敗率がもっとも高いのはちくま文庫だろうか。ちくま文庫のカバーはシールと相性が悪い。同じ非コーティングでも新潮・角川あたりはまだ剥がしやすいような気がする。
ついでにいえば、ちくま文庫のカバーは指紋が付きやすい。ただ、だからといって突然あるときからコーティングされたカバーのちくま文庫が登場するとすれば、きっと違和感を感じるに違いない。勝手なものである。
岡崎武志さんはこの価格シールを「シールはがし」を使って剥がしているという。ちくま文庫『古本でお散歩』に収録されている「柔らかい肌」という古本補修の蘊蓄をまとめたエッセイによれば、「シールはがし」とはスプレータイプで、「魔法のようにきれいにはがれる」という。
私も一番最初に試したときは「こんなもので本当に取れるのか」と半信半疑だったが、何もなかったかのようにシールがはがれた時には、おおげさでなく、感動してしまった。これを読んで以来、この「シールはがし」というグッズはつねに気になっているのだが、まだ手に入れていない。溶剤は揮発性なので、スプレー塗布時は濡れたようになってもやがて消えるというのもいい。
指紋を付けたくないという本の場合、一番いいのは新刊書店でかけてくれる紙カバーをかけて読むことだろう。本の天地にすこし余裕があれば、カバンに入れていても痛みは最小限度に抑えることができる。