棚上げは是か非か

古風堂々数学者

藤原正彦さんの文庫新刊『古風堂々数学者』*1新潮文庫)を読み終えた。これまたいろいろと考えさせられるエッセイ集だった。
去年初めて藤原さんの著作『父の威厳 数学者の意地』(新潮文庫)を読んだとき(旧読前読後2002/5/24条参照)に感じたようなアンビヴァレンツな感情がまたしてもよみがえってきた。アメリカナイズされた思考回路を持ち合わせているゆえに、論理的に考えて正しいと思ったことは即座に実行する。

正々堂々と論戦し、そこで勝った者の意見が正しい、というのがアメリカ式である。私が論戦で負けることはほとんどなかったから、自ら引こうとはまずしなかった。人々のひんしゅくを買っていたと思う。(「けしからん若者」)
このため藤原さんは同僚の老教授に「アメリカかぶれ」と皮肉られたという。
私は自己主張が苦手だ。自分の意見があったとしても、会議でそれを堂々と主張して反対意見の人と論戦するということはしない(できない)。論戦する前に引いてしまう。いや、そもそも「自分の意見」を持っているのかすら怪しい。
こういう人間は、たぶん組織としては不要なのだと思う。自分でも、自らのこうした自己主張のなさ、意見のなさについて卑怯だと思わずにはいられない。藤原さんのような自分と正反対の人の話は自分にないキャラクターだけに、面白いと思う反面、やりすぎではないかと苦々しく思ったりする。
むろん藤原さんも単純なアメリカかぶれではない。上に引用した同じエッセイの中で、こうしたアメリカナイズされた思考から距離をとり始めたことを告白している。合理的に教えられない日本人としての「かたち」が大切だと主張する。
これがいわゆる藤原さんの武士道精神の称揚につながる。藤原さんが高らかに唱える武士道精神は、ある意味アナクロニズムとしりぞけられそうだが、言っていることはたしかに正論なので納得させられるのだ。
藤原さんは本書の「あとがき」でこんなことを書いている。
この上なく不細工な私がこの上なく美しい数学を追究し、草野球の三振王が巨人打線を批判し、女房が私を避難中傷軽蔑する、などに見られるように、人間には「自分のことを棚に上げる」権利がある。この権利は人類発展の原動力でもある。
ここで述べられていることは半分冗談だとしても、「棚に上げる」というのはたしかに自己主張のさいには必要な条件なのかもしれないと思う。私はこれができないし、こういう人は好きではない。
上の例で言えば、「草野球の三振王が巨人打線を批判」というように、野球もできない人が野球論・巨人批判をするなと思うことがある(ああ、ついに言ってしまった)。実はこう思うことだって、結局自分のことを棚に上げているということにいま気づいた。
他人のことを注意しようと、その言葉が喉まで出かかってぐっと飲み込むことがある。喉まで出かかったとき、「いや、自分だってそういうことをやってるじゃないか。人のことは言える立場ではないじゃないか」と我が身を省みて引っ込めてしまうのである。ここで自分のことを「棚上げ」できれば、きっと自己主張も積極的にできる人間へと変身できるのだろう。
藤原さんの言うように「棚上げ」が基本的人権と同じく万人の権利だとすれば勇気づけられる。でもたぶんその権利を行使できないまま、私は年齢を重ね、朽ちてゆくのだろう。仕方のないことだ。