栞論

文庫本に紙の栞が挟み込まれるようになったのはいつ頃からだろう。老舗岩波文庫はもともとスピン(紐栞)を備えていないので、やはり岩波だろうか。あるいは角川文庫だろうか。自分の記憶でいえば、角川文庫で紙栞に初めて接したような気がする。
もとより昔の角川文庫もスピンを用いていたわけであるが。いまやスピンを残しているのは新潮文庫だけになってしまった。残していることは嬉しいけれど、私は使わない。新潮文庫は、新刊に必ず挟み込まれている新刊案内を栞代わりに使う。
古本屋で買う文庫本には栞(以下栞とは紙栞のこと)がなくなっていることが多い。ブックオフが顕著である。もっともブックオフなど新古本屋の場合、レジに各社の栞がまとめて置かれており、会計時に自由に持って行っていいことになっている。
私はなるべく買った文庫の栞を探してそれを持ち帰ることにしている。文春文庫のなかに角川文庫の栞が挟まっているのは、読んでいても落ち着かないのだ。新刊本屋では、購入時に店独自の栞を挟んでくれるところがある。三省堂東京堂がそうだ。八重洲ブックセンターは色違いの何種類かの栞がレジのところに置いてあって、自由に持って行くことができる。
古本屋でも自前の栞を挟んでくれるところがある。八重洲古書館(金井書店)がそうだ。ただ本屋で栞を挟んでくれた場合、すでに買った本に専用の栞があるときには、書店の栞は本から抜き取って書棚に設けている「栞置場」に貯めておく。
新刊案内が取り去られた新潮文庫の古本を読むような場合、栞置場からそのときの気分(と本の雰囲気)に合わせて栞を選んで挟み込む。読み終えたらその栞はできるだけ元に戻すよう心がけている。
新潮文庫の「Yonda?君」栞は紙の堅さも大きさ(小ささ)もデザインもいいので、何度も何度も使い回ししているほどだ。かくして栞置場の栞は増えるいっぽうである。
最近古本屋でもらって嬉しかったのは、つげ義春の絵があしらわれている五色セットのもの。「中野サンプラザ古本まつり第50回記念―オリジナルしおり―」とある。
この古本まつり第50回というのは、すでに過去のものなのか、近日開催の予定なのかまったくわからないが、もし前者であればそのとき作った残り物なのだろう。いずれにしてもレア物には違いない。
紙栞もスピンもなく、栞の持ち合わせもない場合はどうするか。頁を折るのは嫌いなので、とにかく何か紙を探してきて栞代わりにする。
不要紙を裁断して裏をメモ用紙にしている紙は二つ折りにするとちょうど紙栞のような細長い形になるので、これを使ったりする。当座の代用なのだから折らずにそのまま挟み込めばいいのだが、紙栞=細長という固定観念に縛られているらしい。
だから本当のことをいえば新潮文庫の新刊案内も、栞として使っていながら、決して使い心地がいいと思っているわけではない。捨てられないうえ何種か挟まっていて、このうえに栞を挟むとかさばるので、正直言えば仕方なしに使っているといったほうがいいだろう。栞代わりに身の回りにある紙を使うというのは私だけではないはずだ。古本でも、栞代わりに別の紙が挟み込まれたままという本に出会うことがある。読み終えた時点で栞代わりに挟んだものの存在は忘れ去られてしまっているのである。最近買った古本にもそうした栞代わりの異物に出会った。
一つは山本夏彦さんの『ダメの人』(文春文庫)。挟み込まれていた紙片には食事作法五ヶ条が書かれてある。「当山の坊入り膳の箸紙には、この食事作法が記されております」とあるところを見ると、どこかのお寺でもらった紙片なのだろう。二つ折りでちょうど紙栞大の大きさになっている。山本夏彦さんのエッセイ集との取り合わせが意味深である。
いまひとつは獅子文六の『沙羅乙女』(角川文庫)。パラパラとページをめくっていたら、栞代わりに使われていたとおぼしき切手三枚が目に飛び込んできた。「第52回国際ロータリー年次大会記念」とあり1961年の年次が刻まれている未使用10円切手三枚綴りである。
この古い角川文庫にはいっぽうでスピンがあるから、かつてこれを読んでいた人は、私同様スピンを使わず、手近の切手を栞代わりに使っていたのかもしれない。裏の糊のせいで、糊と接していた部分だけ紙が変色してしまっている。
いまから約40年前の切手だが、10円切手の値打ちはどの程度のものだろうか。官製葉書1枚に相当するとすれば、現在の150円分ということになる。私はケチだから50円×3枚の切手を栞代わりに文庫本に挟むなんて、もったいなくてできない。思わぬ40年前からの贈り物だった。