エロスと食べ物と久保田万太郎

飲食男女

久世光彦さんの新刊短篇集『飲食男女(おんじきなんにょ)―おいしい女たち』*1文藝春秋)を読み終えた。きわめて官能的にして幻想的、ノスタルジックな雰囲気に満たされた短篇集であり、絶妙なレトリックと凄烈なイメージに酔った。
物語は回想エッセイのような語り口で語られはじめ、読んでいくうちいつしか現実ともフィクションともつかない異世界に連れて行かれる、そんな感じだ。
生まれた家のある阿佐ヶ谷、軍人であった父の転勤にともなって札幌や北陸の町に移り住んだ少年時代から、本郷に通っていた大学時代を経て、だいたい三十代の頃までに出会った女たちをめぐる“ウィタ・セクスアリス”的な物語が幻想という衣をまとって積み重ねられている。
女をめぐる話とは別に印象深いのは、物語の随所にみなぎるノスタルジーであり、その感性と一体化している空間への懐かしさである。少年時代に友人と探検した杉並の緑深い町並み、頽廃的な「隠れ蓑願望」を抱いていた若き頃、西神田の高速道路沿いに見つけた同潤会アパートばりの古アパート《ファウスト・ハウス》で出会う女。この西神田のアパートとは、現在すでに取り壊されてしまった憲兵宿舎のことではないだろうか。私はまずこうした空間的な道具立てに魅惑された。
もとよりいま述べたのは、本書に収録されている短篇の大道具的しつらえに過ぎない。肝心なのは男女のまじわりとその官能的な描写だ。「唇ふたつ」という思わせぶりなタイトルのプロローグは、「ぼくは、女の人のもう一つの唇が物を言うのを聞いたことがある」という想像を絶する告白から語り出される。三島の有名な誕生の記憶が引き合いに出され、ここであっけにとられてそのまま物語の虜になるのだ。
書名『飲食男女』にあるように、食べ物にまつわる物語のイメージが強烈である。子供の頃に作者の家に寄宿していた又従姉との淡い性の思い出「悦ちゃんのジャム」、腐れかけた桃の匂いに誘われた隣の人妻との愛欲生活を語る「桃狂い」、とろろ芋を口にしたときに肌がかゆくなったことが底に沈んでいた女の性感を呼び覚ました話「とろろ芋」、子供の頃に遊び場にしていた廃尼寺のなか、女の尻を木魚に見立て撥で叩きながら性交を行なう男女の話「月心寺の真桑瓜」など、突拍子もない、でも妖しすぎて脳裏から離れないようなイメージが次々に描かれる。「月心寺の真桑瓜」もそうだが、本書には尼寺が何回か登場する。久世さんが好きな舞台設定である。
いっぽう幻想性ということでいえば、友人に根岸に誘われ、そこで子規の晩年に性の相手をしていたという女性と交わる、時空がねじれたような「へちま」に指を屈する。
これまで久世さんの作品の愛読者というほどではなかった。しかし今回この『飲食男女』を味読して久世さんのレトリックにしびれた。女性の描写、「思い出」の描写について、現在この人の右に出るような人はいないのではあるまいか。たとえば次のような文章はどうだろう。

唇の形や目の潤み、腋の下から背中へかけての曲線や足指の裏側の窪み、幸福に酔って束の間弛緩する肌も、怨みがましい性情も――女というものは、それらをみんなひっくるめて、つまりは《味》なのではなかろうか。(「粒あん漉しあん」)
いまになって不思議でならないのだが、昭和三十年代のあのころの街には、どうして《物語》があんなにあったのだろう。誰も知らないアパートの角の部屋や、ニコライ堂の裏の露地に、若い《物語》が、空のビール壜みたいにいくつも転がっていた。(「煮凝」)
個人的に惹かれたのは、プロローグ「唇ふたつ」とエピローグ「おでん」で久保田万太郎が登場することだ。プロローグでは、口を聞いた下の唇を持つ女を思い出しつつ「秋風や忘れてならぬ名を忘れ」という句が引用される。エピローグではこんなふうに久保田万太郎が登場する。
この歳になって、ふと心波立つことがあると久保田万太郎を思い出す。折に触れて、昔の辛い気持ちが蘇ると、万太郎の句が胸を過る。若かった頃には聞き過ごしていた万太郎の未練がましい呟きが、柱時計が時を刻む音のように、いつまでも耳に残るようになった。
この文章も素晴らしい。本書全体の締めくくりは万太郎の句「種彦の死んでこのかた猫の恋」である。本書は、柱時計が時を刻む音のように久世さんの脳裏に刻まれた、女に対する「未練がましい呟き」ということなのだろうか。