小林信彦的批評に仕込まれた麻薬

にっちもさっちも

小林信彦さんが『週刊文春』に連載しているエッセイ「人生は五十一から」のうち、昨年分をまとめた『にっちもさっちも』*1文藝春秋)が刊行された。昨日購入して読みはじめたら面白く、一気に読んでしまった。「GWは積ん読本を読んでいこう」と言う決意はどこにいったのか。
シリーズ第一冊目が昨春文庫に入るまで、小林さんの連載の存在をまったく知らないでいたのだが、文庫を読んでみるとすこぶる面白く、一気に小林熱が高まったことはそのときの「読前読後」に書いた(2002/4/15条)。直後に2001年分をまとめた新刊『物情騒然。』(文藝春秋)が出てこれも読んだ(2002/4/26条)。またこれと前後して筑摩書房から『昭和の東京、平成の東京』が出て、さらにちくま文庫に入った『私説東京繁昌記』も読んだ挙げ句(2002/4/19・5/16条)、小林信彦作品は食傷気味になってしまった。
それ以来の小林節、さすがに間をあけていただけあって、拒絶反応なく空腹時に染みこむように入ってくる。『物情騒然。』を読んだときに感じた閉塞感がさらにいっそう深まってきてはいるのだが、前作を読んだときに感じた失望感よりむしろ面白味を感じたのはなぜだろう。
アメリカ・ブッシュ政権帝国主義に疑義を呈し、小泉内閣の経済政策を批判する。デフレ克服策としてのインフレ政策について、戦後のインフレを経験した立場の人間として執拗に危惧を唱えておられるが、もはやそれが持ち味となってしまっているのである。
話は戻るが、このときから小林さんはブッシュ大統領の姿勢には批判的であった。2002年も後半になるにつれて、アメリカのイラク攻撃が現実味を帯びていくなか、小林さんは警鐘を鳴らし続けた。
結局今年に入ってイラク戦争が始まってしまったわけだが、いま小林さんはこのことについてどんなふうに書いているのだろう。もはや悪い予想が当たってしまったことで、書く気さえ失せているのだろうか。来年新しい本にまとまったときに読むのを楽しみにしよう。文章の端々に絶望感が滲み出ている。徒然に頭に思い浮かべるのは過去のことばかり。もはや未来に希望は抱かない。たいへんな時代に老年を迎えてしまった…。
二人の娘たちは成長して独立した。娘たちが子供だった頃の若き父親たる自らをふりかえり、若いわたしたちに呼びかける。

いま現在、子供たちとの旅(帰郷、海外旅行など)で慌しい思いをしている方、あなたはとんでもない幸せの真只中にいるのです。その幸せを抱きしめていてください。残念ながら、そういう特殊な瞬間を固定させ、時を停止させられるのは、プルーストのような天才作家だけなのですから。(「真夏の家族たち」167頁)
今度の『にっちもさっちも』を読んで、自らの、そして自らの家族の将来に対する不安をおぼえた。先行き不透明な未来のために自分たちは何を準備すればいいのか。現在、未来への準備を怠りなくしていたとしても、果たして子供たちは幸せに暮らすことができるのだろうか。いずれにしても「とんでもない幸せの真只中」にいることを自覚して楽しく過ごすにこしたことはない。
感想が暗くなってしまったが、相変わらず映画・映画人・ラジオ・DVD・喜劇人に目配りがきいていて、こうした小林さんの関心とはほとんど重なり合わない私でも楽しく読むことができる。
追悼文はビリー・ワイルダー鮎川哲也山本夏彦のお三方。『物情騒然。』のときには、「敬愛する人の死を悼む文章の書き手という意味で、ひそかに私は「人生は五十一から」を山口瞳さんの「男性自身」の衣鉢を継ぐものと思っていたのだが、正直言って失速感を感じたのは否めない」などと書いてしまったのだが、これは撤回する。小林さん独特の距離の取り方と人物スケッチはやはり山口瞳さんの衣鉢を継ぐものである。
本については、二回にわたって獅子文六再評価を促した「獅子文六を再評価しよう」が印象深い。先日、『週刊文春』でこれを読み、思わず昼休みにタクシーに乗って神保町に『獅子文六全集』を買いに走ったという方のエピソードを聞いたが、たしかにそういう気持ちにさせられる、高揚したアジテーショナルな文章だった。
坪内祐三さんは、小林信彦さんが上林暁を高く評価する文章に導かれて『上林暁全集』を読破したという(ちくま文庫『禁酒宣言』解説)。小林さんの批評文には、当該作品を読みたく(観たく)させるような麻薬が仕込まれている。