一片の紙片から広がる世界

外国切手に描かれた日本

少年時代誰でも一度ははまる蒐集趣味として切手集めがある。私も例に漏れず小学校中・高学年の頃切手蒐集に情熱を燃やしていた。
私が切手に興味を持っていることを知った母が、自分が細々と続けていたコレクションを譲渡してくれ、それを引き継いだのである。記念切手発売日には近くの郵便局に駆けつけて購入し、喜々としてコレクションに加えていた記憶がある。
時期でいえば1970年代後半にあたるが、日本で切手蒐集が大ブームとなったのは、内藤陽介『外国切手に描かれた日本』*1光文社新書)によれば80年代に入ってかららしい。その頃私はすでに切手蒐集に飽き、ガンプラ機動戦士ガンダムのプラモデル)趣味に走っていた。
上記の本の著者内藤さんは私と同年生まれで東大大学院人文科学研究科の助手さん。「郵便学者」の看板を掲げ、切手をはじめとした郵便資料の読み込みにより国家や社会のあり方を追究するという、すこぶる刺激的な研究を精力的に進められている。
この本が三月に出たことは知っていたが、購入の直接のきっかけは4/13付朝日新聞での木下直之さんによる書評である。
このなかで木下さんが「切手という小さな紙切れの背後に、広大な風景が浮かび上がる」と書いていたのを読み、俄然読みたくなったのである。私はこのようなダイナミックな視点の本が大好きなのだ。
本書は四章仕立て。第一章「フジヤマ・ゲイシャの切手たち」は総論的に、切手に描かれた日本の姿を歴史的に追いかけ、そのイメージの変遷を論じる。このなかでは切手発行による外貨獲得のシステムが述べられていて、なるほどと興味を惹いた。
第二章「外国切手に登場した日本人」はタイトルどおり、外国切手に登場した日本人をずらりと紹介するもの。
第三章「「原爆切手」騒動記」は、アメリカの記念切手に原爆投下の図柄がデザインされることをめぐって、日米間の外交問題に発展した事件を追い、切手の外向けの意味を考える内容。
第四章「メイド・イン・ジャパンの外国切手」は、太平洋戦争前後の日本と朝鮮・中国の関係を切手発行という問題を切り口に考察したもの。先の木下さんの書評はこの点に触れている。
やはり知的刺激を受けるのは第一章・第四章である。
第一章ではどちらかといえば切手に描かれる対象としての日本(日本人)が問題となっているが、読んでいくうちに興味を抱いたのは、むしろ切手を発行する側としての日本という問題だった。
切手蒐集に熱中していた頃を思い出すと、私は外国切手にはさっぱり関心を向けず、国内の切手ばかりを集めていた。この理由がいずこにあるのか自分でもわからない。ハイカラで多彩なデザインの外国切手よりも、印刷の粋をきわめ精緻を凝らした日本切手に惹かれていたのかもしれない。たぶんこの感覚はいまでも失っていないと思う。
第一章中には、日本の切手趣味週間に出された浮世絵美人画切手がフランスの切手デザイン戦略に影響を与えたという指摘がある。ここでは大蔵省(現財務省印刷局のブランド性が示唆されていて、この点にすこぶる関心を動かされた。
大蔵省印刷局(もしくは造幣局)という存在は、紙幣・証紙を印刷(もしくは貨幣を鋳造)する部局として秘密のベールに包まれている。紙幣印刷をことさらに謎めいた存在にしてしまう思考回路は、アニメ映画「ルパン三世 カリオストロの城」の見過ぎだろうか。
その一方で(それゆえにというべきか)、この部局は日本の印刷技術の最高水準を示しているといっても過言ではないだろう。
印刷技術の話ではないけれど、フランス版画が求めた最高の紙が、わが国大蔵省印刷局で紙幣印刷に使用する「局紙」と呼ばれる紙であることは、鹿島茂さんの本(『それでも古書を買いました』白水社)に詳しい。本書を通してこの印刷局の仕事が垣間見えるのではないか、そんな期待を持ったのだった。
いま述べたような私の知的好奇心は、実際に第四章を読むことで半ば満たされた。印刷局アジア諸国の切手印刷を請け負っていたということや、同局内での切手印刷技術の進歩が詳しく記されていたからである。
なるほど切手という“一片の紙片”から広がる世界は広い。今後の「郵便学者」としての内藤さんのお仕事は要注目である。