疑問が先か解答が先か

鹿島さんの新刊『関係者以外立ち読み禁止』*1文藝春秋)を読みながら、こんなことを考えた。
帯には「世の中とエッチの〈?〉と〈!〉」と書いてある。ほぼ同時に出た井上章一さんとの対談集『ぼくたち、Hを勉強しています』(→4/14条)にもあるように、すっかり“H学”の権威と化しつつある鹿島さんだから、やはり本書もこのような事象に触れたエッセイ集かと思いつつ読んでいると、この本の価値の半分も理解していないことに気づくのである。
本書はすぐれて比較文化論的な読書エッセイなのだ。日頃疑問に思っていた事柄について、疑問を解き明かしてくれそうな本を探して熟読しながら問題点を整理し、自分なりの解答を導き出す。
もちろん“H学”的テーマもある。『ぼくたち、Hを勉強しています』でも話題に出ていた「インテリ女性32歳結婚」説や「おままごとボーイ」説、巨乳と小乳(!)の盛衰史、フランス人長時間キスの謎について、導き出すにいたった筋道が詳しく説明されている。
しかしそれはごく一部であり、おおよそは“H学”とは無関係な、幅広い関心にもとづいた比較文化論的考察によって占められている。
とここまで書いて、本書の姉妹編(同じ連載)にあたる『セーラー服とエッフェル塔』(文藝春秋)を読んだときにどんな感想を書いたのか調べてみて思わず苦笑してしまった。なんだ、同じことを書いているじゃないか、と(2000/11/15条)。
「鹿島さんのエッセイ集のなかでもすぐれて比較文明史的視点・文化史的視点・文明批評的視点に富んだ〝読書エッセイ〟である」と、一年半前の自分もちゃんと書いている。言い回しまで同じだ(同じ人間だから仕方ないか)。
鹿島さんの論理を真似して前提を疑ってみよう。そもそもこれら二著に見られる鹿島さんの疑問は、本当に常日頃から疑問として抱かれているものなのだろうか。
たとえばある本を読んだ。そこにはこんな「目から鱗」の指摘があった。この解決から演繹して疑問を抽出し、あらためて疑問から解決までたどり直して叙述する。こういうパターンはないのだろうか。
私はそれが悪いと言っているのではない。読書エッセイでありつつ、疑問→解決の流れに仕立て直してそれを感じさせない鹿島さんの巧みな技量に感じ入るのである。