新書に綴る新書的自伝

新書百冊

坪内祐三さんの新書百冊*1新潮新書)を読み終えた。
新書を購入し読み始めた高校時代から大学院生に至る成長の過程で触れてきた新書について語ることで、自らの知識形成の歴史をふりかえるという「半自伝」的書物であった。これまた坪内さんの他の本の例に漏れず無類に面白く、読ませる。
『雑読系』(晶文社)を読んだときに指摘した(2/24条参照)坪内さんの書物との向き合い方の特徴が新書というジャンルに特化されて遺憾なく発揮されたというかたち。
そのおりの繰り返しになるけれど、「本書で言及されている書物に関して、いつ、どこの本屋で、どういった流れのなかで出会い、またどんな状況のなかでその本を読んだかという、内容以外の“メタデータ”の部分をとても大事にされている」という点にあらためて敬意を抱く。
坪内さんのスタイルは上記のようなものだから、大半のエッセイには自ずと自伝的要素が含まれてくることになる。極端に言えば本書はその裏返しのパターンといえようか。
自伝的叙述をするなかで、おりおりに関わった新書が浮かび上がってくるわけだ。このようなテーマを企画して坪内さんに本書を書かせた編集者の炯眼を一読者として賞賛したい。
本書を読んで思うのは、新書というジャンルの本の特性である。このなかで強く主張されるのは、新書という看過されがちなジャンルにも「凄い本」「有り難い本」「シブい本」(帯より)がたくさんある(あった)ということ。
ジャンルとしての制約上、啓蒙的・概説的色合いをまとわされがちななか、とてつもなく中身の濃い新書が紛れ込んでおり、それを自らの嗅覚で探し当てたり、偶然に出会って知的興奮をおぼえたり、そんな探書・読書の楽しさが伝わってくる。
新書は上記のような性格が付与されることが多いから、そっけないタイトルのものが多い。タイトルだけで中身を判断してしまうと「凄い本」「有り難い本」「シブい本」を見逃してしまうのである。その代表としてあげられているのが、小野忠重『版画』(岩波新書)だろうか。「クロス・カルチュラルな文化研究(カルチュラル・スタディーズ)の傑作」と評される。
「新書を読もう」という気を強く起こさせる、知的刺激にあふれた書物だった。