幸田文論にして森茉莉論

山本夏彦『最後のひと』*1(文春文庫)を読み終えた。先日文庫に入った『完本 文語文』(文春文庫)のなかで本書に言及があり、読みたいと思っていたところ、偶然古本屋で見つけることができた。
本書は日本文化独特の美意識である「粋」というものの内実、その消滅を花柳界の変遷のなかに位置づけようとした長編評論である。
「あとがき」のなかで山本さんはこう述べる。

男は大正十二年の震災以来、女は昭和二十年の戦災以来着物を着なくなった。いき、婀娜、伝法などは着物と共に亡びた。
本書の主旨は以上の一文に尽きる。これを近代花柳界の名妓、そこに通った名士、文士、歌舞伎役者の世界を取り上げながら実証する。
そのさいの主要なテクストとなっているのが幸田文の代表的長編『流れる』である。父露伴没後、父の思い出を書くことで文名を上げた文だが、このまま作家として続けていけるのか不安に苛まれた果てに失踪し、花柳界に身を投じる。身を投じるといっても芸者になったのではない。芸者置屋の女中として素性を隠して働くのである。
山本さんは幸田文を、花柳界の玄人と素人の区別を知る“最後の人間”と位置づけた。
いきは着物と密接な仲にある。着物が亡びたからいきは亡びたのである。ついでながら裁縫も、少し遅れて料理も亡びた。そのしんがりをつとめた人として幸田文に登場してもらったのである。(267頁)
幸田文さんがこんな形で本書の主人公になっているとは読み始めるまで知らなかった。本書は一種の幸田文論であり、また露伴も含めた幸田家論ともなっている。
本書のタイトル「最後のひと」は幸田文一人を指すのではない。幸田文と対照的な人物として取り上げられているのは森茉莉である。森茉莉幸田文より一年年長。家事はまったくできなかったものの、料理は得意だったという。ことあるごとに二人は比較対照されて論じられる。彼女もまた着物を知る「最後のひと」であると位置づけられる。
山本さんの文章は非論理的で脱線が多い。文と茉莉を比較すると始めていつの間にか別の話題になっている。文の語彙を並べようとして十分に果たされていない。これが文筆家山本夏彦の味であるといえるのだろう。