文化の発信源について

世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか山形県酒田市にあるフランス料理店「ル・ポットフー」の名前を聞いてまず思い浮かべたのは、吉田健一山口瞳の二人だった。
山口さんの場合、『酔いどれ紀行』*1新潮文庫、旧読前読後2003/2/13条)がある。当地に宿泊した4日間のディナーがすべてここだった。メニューが逐一紹介され、口を極めて絶賛されている。山口さんらしいのは、食前酒に出た地元酒田の名酒「初孫」が口に合わなかったのを正直に書いていること。
吉田健一の場合、たとえば手近にある『酒肴酒』*2光文社文庫)をめくってみると、「山海の味・酒田」「羽越瓶子行」といった名篇を見つけたが、ル・ポットフーの名前はなかった。このなかで賛辞が寄せられているのは、山口さんの口に合わなかった初孫と、酒田きっての割烹相馬屋である。
フランス料理店ル・ポットフーの名前を日本に知らしめたのは、支配人佐藤久一という人物である。このほど彼の評伝が出た。岡田芳郎『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか』*3講談社)だ。それにしても長い書名。
本書を読んだら驚きの連続だった。わたしは山形市の生まれである。同じ県内でも庄内酒田(鶴岡も)のことはほとんど知らない。でも「酒田大火」のことはうっすらと記憶にある。昭和51年(1976)10月、焼失家屋1774棟、焼失面積で戦後四番目の大火だという。
本書を読んでいて、その火元がある映画館であったことが書かれており、そう言えばそうだったと思い出した。驚いたのは、その映画館「グリーン・ハウス」は、ル・ポットフー佐藤久一氏が最初に手がけたところだったということ。
映画産業花盛りの1950年、父から映画館の経営を任された若干20歳の青年は、映像や音響に凝り、また観客に居心地のいい気分を味わってもらおうと、座席をゆったり座れ、座り心地のいいものに改造した。また、二階に個室をもうけ、団体で和気藹々と楽んで観られるような工夫もした。そうした評判が徐々に広がり、淀川長治荻昌弘といった映画評論家が酒田を訪れて、酒田に優雅な映画館があることを紹介した。
驚いた二つ目。佐藤久一さんの家は、吉田健一が賞した銘酒初孫の醸造元(金久酒造)だという。しかも銘柄の名前「初孫」は、そのときの経営者であった祖父三五郎が、跡取り息子の家で初孫久一さんが誕生したのを喜び、生み出されたものだという。
吉田健一が「羽越瓶子行」のなかで、河上と酒田の金久酒造を訪れたとき、彼らを案内したのは久一さんの父久吉だったという偶然。久一さんに映画館を任せた父は、その後酒田市議会議員、同議長、酒田商工会議所会頭などを歴任した名士でもあった。
しかし順調にいっていた映画館経営もあっさり投げだし、東京日生劇場に勤めを変えてしまう。結婚していたが、好きな女性ができたため、映画館経営という仕事を放棄したのである。
久一さんは、映画館経営に見られるように、創意工夫に富んだアイディアマンで、自分の考えを実現するためには出費も惜しまないような理想家肌であった。ゆえに日生劇場の営業部劇場課次長という人から使われる立場に窮屈さを感じ、力を発揮できないまま、同劇場の食堂課仕入れ担当次長に異動となる。
しかしそれが禍転じて福となる。完全に自分一人の才覚に任されるような食材仕入れは久一さんの性に合い、食の世界に没入してゆく。そこにちょうど父から、酒田でレストランを経営しないかという声がかかり、郷里に戻るのである。
最初に経営したレストラン欅に次いで、酒田のデパート内に店を構えた。それがル・ポットフーである。ここでも映画館同様おもてなしの心に重点を置いて、酒田でも指折りのレストランにのしあげる。
酒田に釣りのため訪れ、さっぱり釣果がなく機嫌の悪かった開高健が、デパートにある食堂に案内され、さらに不機嫌になったところに、ひとくちアペリティフの日本酒を飲んだらその旨さにしびれ、続いて出された料理に居ずまいを正し、最後にはソースの一滴も残さずパンで拭き取って食べ尽くしたという挿話が本書の山場だろう。
開高健から酒田に美味いフランス料理店があるという話を聞き耳を疑ったグルメの丸谷才一が、その後同店を訪れ、舌鼓を打ったことを『食通知つたかぶり』で書く。そして山口瞳が『酔いどれ紀行』で滞在の四日間通いつめる。
食の専門誌の編集長だった森須滋郎もこの店のメニューを絶賛し、その後取材した新潟からわざわざ戻ってきた。多忙のなか酒田に招かれた古今亭志ん朝を歓待し、フランス料理通で知られた志ん朝の舌をうならせた。
仕入れに注がれる久一の熱意と資金にくらべ、出される料理の値段はあまりに安い。古今亭志ん朝が驚いたのもその点だった。山口さんが佐藤さんを「サービス魔」と名づけたことが、その態度を象徴している。
当然採算がとれず、店の赤字が積み重なり、とうとう経営を諦めざるをえなくなる。デパートからホテルに移ったル・ポットフーから久一が離れたのが1993年、彼は古巣のレストラン欅に戻ったものの、1997年に永眠する。
映画の黄金時代、「裏日本」の小都市に、日本中に名声をとどろかした映画館を経営し、その後同じように名声をほしいままにしたフランス料理店を生みだした男がいた。日本海側の、人口10万人前後の地方都市に、そのような映画館やフランス料理店がひとつあるだけで他の分野にも影響が及び、文化の質が向上するということが証明される。「文化とは何か」ということを考えさせられる本である。

丑年の年賀状には

菅原伝授手習鑑 車引

今日の目的は吉右衛門の「関の扉」なのだが、混雑することを予想して、ひとつ前から観ることにした。幕見料金としては、一番最初の「小野道風青柳硯」と込みだけれど、家を出るのが遅くなった。
今月の「車引」は、松王丸が橋之助、梅王丸が松緑、桜丸が錦之助。梅王丸の松緑の筋隈をとった顔つきが迫力満点。声が相変わらず一本調子気味なのが残念なのだが。錦之助の桜丸が意外にいい。
そしてこの三人以上に印象深かったのは歌六の時平公だ。あの低い声が藍隈をとった悪の権化にぴったりである。
ここ数年年賀状に、干支を歌舞伎に出る動物に見立てた図柄を用いている。昨年の亥年には、忠臣蔵五段目「二つ玉」のイノシシ、今年の子年には千代萩の荒獅子男之助に踏まれる鼠だった。来年の丑年はどうしようかと考えていたが、どうやらこの車引の、時平公が乗る牛車の牛が第一候補になりそうだ。

積恋雪関扉

吉右衛門の関兵衛(実は大伴黒主)、福助の小町姫・傾城墨染(実は小町桜の精)、染五郎の少将宗貞。たぶん吉右衛門の関兵衛は以前観たことがある。小町姫・墨染は芝翫で観たはずだが、今回観ていると、横顔などにふと六代目歌右衛門の表情が重なる。最近こういうことが多い。もっともわたしは歌右衛門の舞台を観たことはない。
「関の扉」は上段、常磐津に乗りながら関兵衛と小町姫が問答をおこなうくだりと、三人が手踊りするくだりの調子の良さが大好きだ。下段になるとちょっとだれてきてしまう。これは観るほうが悪いのだろう。
常磐津舞踊を堪能し、上気した気分で幕見席から階段を降りようとして驚いた。次の忠臣蔵七段目を幕見で観ようとする人びとの行列がテケツの目の前から始まっている。行列は階段を降りきるところまで続いていた。日曜午後のいい時間帯とはいえ、皆そんなにまでして幸四郎由良之助の七段目を観たいのか。
別に幸四郎の七段目が悪いというわけではないが、少し早く出て、この「関の扉」を観ればさらに面白いのにと思う。
さて、観劇の帰り道、歌舞伎座近くの小諸そばで腹ごしらえをしたあと、いい陽気なので少し歩いて帰ろうと北に向かって歩いた。三島由紀夫「橋づくし」で有名な三吉橋を経ているうち、いつのまにか八丁堀へ。モダンな雰囲気の阪本小学校の校舎を見ながら兜町に入る。
東京証券取引所の裏手に、昭和初期の雰囲気を残した証券会社の建物があったので、思わず写真を撮った。山二証券(山一証券ではない)と成瀬証券である。
このあたりまでは元気だったが、江戸橋を渡り三越を過ぎたあたりから疲れが出はじめる。しかし我慢して歩いていると、JR神田駅にたどりついたので、残った気力をふりしぼって小川町まで歩きとおした。銀座から小川町まで、東京に来てこんなに距離を歩いたのは初めてかもしれない。
夜、TBS系のテレビドラマ「佐々木夫妻の仁義なき戦い」をぼんやり観ていたら、思わずテレビに体を近づけてしまった。今日写真を撮った建物が、佐々木夫妻の弁護士事務所として使われているではないか。撮影した画像を見直して確認する。
その後“近代建築散策”で調べてみると、茶系の山二証券が建てられたのは大正末年、灰色の成瀬証券は昭和10年だという。建築家はともに西村好時というのも面白い。藤森照信さんの『日本の近代建築(下)』*1岩波新書)によれば、西村好時という建築家は、第一銀行・満州中央銀行総行など金融機関の建物を多く手がけた人らしい。

超高層の東証の建物の裏に、60年代の映画(たとえば「大番」)にときおり映る日本橋の証券街の残滓を見つけて喜び、さらに、その日観たドラマのロケ地に使われていることを知るといった偶然は滅多にないだろう。