知識を体系化する喜び

戦時下の日本映画

雑多に詰めこんできた知識を雑多なままにしておく、とにかく種々雑多な知識を得ることに喜びを見いだす人がいれば、雑多な知識をそのままにしておかず、相互に関連づけ体系立てる、あるいは関心にしたがって知識を得ることに幸福を感じる人もいる。
前者のタイプはクイズ向きだ。職業柄もあって、どちらかと言えばわたしは後者に属するほうかもしれない。ただ後者にも大別して二つのタイプがあって、自分で体系立てることに執念を燃やす学究型・創造型と、他人によって体系立てられた本を読んで、それまで自らに蓄えられた知識をそこに位置づけることで満足する受動型に分けられる。わたしはこれまた後者に属しよう。要は面倒くさがりなのだ。
ここ何年か古い日本映画を観る機会が多くなると、ブッキッシュな志向をもつわたしはそうした映画に関する書物にも手を伸ばすようになる。と言うより、書物に寄りかからないと不安な気持ちになるのである。
最近では川本三郎『時代劇ここにあり』(平凡社)、中丸美繪『杉村春子―女優として、女として』(文春文庫)、竹中労鞍馬天狗のおじさんは 聞書アラカン一代』(徳間文庫)など、頻繁に映画や俳優に関する本を買ったり読んだりしている。あまり立て続けに似たような本を読むと飽きてしまうので、なるべく違う分野の本を間に挟みながら映画の本を読みたいと思うのだけれど、このところの関心の高さゆえか、つい映画関係の本に手が伸びてしまう。
今回読んだのは、日本近現代史の研究者である古川隆久さんの『戦時下の日本映画―人々は国策映画を観たか』*1吉川弘文館)である。
本書は、国家が戦意高揚や国策宣伝のために主導的に制作させたいわゆる「国策映画」により、当時の国民が戦争遂行に協力するよう洗脳されたといった通説的理解に疑問を抱き、本当に「国策映画」を戦時下の国民が観て洗脳されていたのかという問題を実証的に明らかにしている。
結論から言えば、戦意高揚などの「国策映画」などは不評で、むしろエノケンやロッパが主演した娯楽映画、上原謙田中絹代の『愛染かつら』のようなメロドラマが好まれた。戦時下(1937年に勃発した日中戦争から45年の終戦まで)の映画をめぐる国家、制作者、国民(観客)の関係を捉えなおさなければならないのである。
戦前や戦時中の映画はわずかしか観ていないが、本書で取り上げられた映画で言えば、たとえばエノケンの「孫悟空」(古川さんが本書を書くきっかけとなった映画でもある)、ロッパの「音楽大進軍」、獅子文六原作の「海軍」なとがある。こうした既知の映画や、松竹・東宝・日活といった大会社、エノケン・ロッパ・高峰秀子田中絹代山田五十鈴片岡千恵蔵長谷川一夫らの俳優が*2、古川さんによって戦時下の日本映画史のなかに位置づけられているのを読み、最初に述べたような快感を味わったのだった。
1939年に公布・施行された映画法は、日本初の文化立法とのことで、ある意味画期的な法律である。「国民文化の進展のために映画の質的向上を図ることを目的とし」(82頁)、映画制作や国民の映画鑑賞を国家の統制下に置こうという意図で作られたこの法律だが、基底には当時の官僚・インテリ層に支配的だった教養主義的な精神があったため、この法律にかなうかたちで作られた映画は、映画に娯楽を求めていた国民にそっぽを向かれ、興行成績も惨憺たるありさまだったという。痛快な話だ。
たとえば前掲「海軍」は、開戦一周年「ハワイ・マレー沖開戦」が大ヒットしたのにつづき、開戦二周年を記念して制作された映画である。統計によればこの映画も当年の入場者数1位、収入額で2位となっているが、実はこの映画が「国策映画」として当時の映画館配給系統として定められていた紅白の二系統双方で同時に封切られたためであり(普通はいずれか一方のみ)、映画館一館あたりで計算すると入場者数28位、収入額35位とかんばしくなく、入場者数のわりに収入が少ないから、特に大人には不人気であったことが指摘されている。このあたり、実証主義に徹した本書の方法論が光っている。実際この映画は、原作の面白さにくらべると、まったくつまらなかった(→2004/2/25条)。
このように本書は、史料にもとづいた厳密な実証主義で組み立てられたドライな内容であるため、たとえば佐藤卓巳さんの『言論統制』(中公新書)のような、人間と人間がぶつかり合うところに生じる熱気、生々しさに乏しく、そうした点に不満を持つ人もあるいは出てくるかもしれない。しかしわたしにとっては、知識の体系化のためにとても有用な本で、今後戦前・戦中の映画を観る楽しみが増えたと感じている。
興味深い記述としては、松竹や東宝といった一流会社から一段劣る二流会社に位置づけられていた大都映画の話がある。大都映画は一般的な入場料の半額(10銭)で観られる館があり、そうした安さもあって「下級労働者と小学生」が固定客としてつき、しかも「大都しか観ない固定客が多かった」(44頁)という。
こんな知識がまた増えてゆくから、本を読むことはやめられない。

*1:ISBN:4642077952

*2:彼らにくらべアラカンさんはやっぱり記述が少ない。これも一般的な映画史における扱いの影響なのだろうか。

武田五一の軌跡

最近ひとりで空橋、空橋と騒いでいる(→9/9条9/30条10/9条)。本郷の台地と西片の台地の谷間に架けられ、二つの台地を結んでいた陸橋のことで、正式名称は清水橋、通称空橋(からはし)と言う。
その橋をデザインしたのが、帝大建築科を出て京大の建築学科教授としても著名だった武田五一であり、彼は本郷の東大から空橋に向かう途中にある真宗の教会堂求道会館も設計している(1915年竣工)。
このわたしの“空橋もしくは武田五一ブーム”を見すかしたかのごとく、今日から文京ふるさと歴史館で武田五一の企画展が始まった(12月4日まで)。いやあ面白い。彼は伊東忠太より5歳年下にあたり、後年ライバルともなるようだが、建築物も、建築物に対する意匠の凝らし方も、コレクションのあり方も、絵心があることも、忠太に劣らず個性的で才能抜群の人物とおぼしい。
武田は福山の出身(井伏鱒二と同郷)で、父が旧藩士だった縁で福山の旧藩主阿部家と親交があった。阿部家の中屋敷は西片にあり、明治に入りそこを開発分譲しながら生きのびようとする。そこには東大の教官たちが多く住むようになり、学者町という独特な雰囲気ただよう高級住宅地として現在もその風情をとどめている*1
五一もまた西片の地に住み、またそこに立つ阿部家の屋敷や空橋(設計図には「伽羅橋」)を設計したのだという。武田の設計した空橋は木造で、現在の(また映画「足摺岬」「親馬鹿大将」で映っていた)橋とは異なる。ただ、橋から谷底の道路に降りてくる坂道の雰囲気は現在とあまり変わらず、そこを樋口一葉が通ったことを思うと感慨深い(木造空橋の模型が展示)。
彼の設計した建築物としては、現在千葉トヨペット本社の建物として残っている日本勧業銀行本館(明治32年)や、比叡山延暦寺大書院として移築された永田町の旧村井吉兵衛邸*2、名古屋龍興寺に移築された旧藤山雷太邸などがある。彼が設計した和風建築が延暦寺など寺院建築として現在も使われているなんて、面白い話だ。
展示物では、東京帝国大学工科大学造家学科に提出された卒論や、卒業証書に目がとまった。卒論は「茶室建築」という表題で、とても卒論という雰囲気ではない、何かの写本とも見紛う和綴墨書の書物であり、挿入図ももちろん手書きで綺麗に彩色されている。
卒業証書は、造家学の主任辰野金吾以下、工科大学の教授連12名の自署・印がずらりとならんだ奥に、工科大学長古市公威の自署・印、最後に総長浜尾新の自署・印がある立派なもの。卒業証書の威厳が、そのまま当時の「学士様」の威厳と直結する。
武田は外側(建物)の設計だけでなく、アール・ヌーヴォー、セセッション様式の旗手として家具や照明器具などのインテリアのデザインにも手を染めており、彼の発想の源となったようなデッサンや切抜きのコレクション、また実際にデザインを手がけた椅子や調度なども展示されていた。
入場料300円のうえ、資料的にも読みごたえのある図録が800円と格安で、期間内にもう一度訪れたい。こんな価値がある展覧会だった。

*1:この経緯を知るには、池内紀さんの連作短篇集『街が消えた!』(新潮社、ISBN:4103755024)所収「いの一番」がいい。

*2:村井は「たばこ王」として知られた人物。