獺祭的混沌と満州的混沌

かわうその祭り

先日書いたように、わたしは朝日新聞を購読している。出久根達郎さんの最新長篇小説かわうその祭り』*1朝日新聞社)は、昨年4月から10月にかけ同紙に連載されていた。
もとよりわたしは新聞連載小説を読むという習慣がない。唯一熱心に読み、切り抜いていたのは、筒井康隆さんの『朝のガスパール』くらいだろうか。出久根さんの連載からは古本的なにおいがたちのぼってきて、そそられてはいたものの、いずれまとめられて本になってからと、変に禁欲的に、連載中読むことはしなかった。
その後今年3月に新刊として刊行されたけれど、懐具合の都合で本書を購入する余裕がなく、「いずれ古本屋で見かけたとき」と先送りしていた。どんどんこころざしが低くなっていた。
いや、こんなふうに書くと、古本で本を買うこと一般を「こころざしが低い」と言っていると誤解されかねない。自己否定ではないか。連載→新刊→古本と読むのを先送りしている自らの怠慢を言葉の綾でそう表現しているだけだ。
さて、本書は、切手商や「貴重文化紙くず」商、古本屋などが絡み、彼らの商いのなかで仕入れられた映画のフィルムが旧満州*2で制作された映画の一部であることが判明し、その制作過程を調査してゆくにつれ、埋もれた歴史的事実が少しずつ明らかになってくる、というブッキッシュな小説である。
と書いているが、実は自分が作品のあらすじを本当に理解できているかどうか、心もとない。告白すれば、複数の映画の映像描写と脚本引用が錯綜し、「紙くず」や切手、古本の知識がつめこまれ、しかも似たような人物たちが多く登場するため、頭が混乱したまま読み終えたのだった。
書名の「かわうその祭り」とは、「獺祭」(だっさい)という成語として知られ、作中の登場人物がこんなふうに解説している。

獺の祭り。かわうそはね、捕った魚を食べる前に散らかしておくんだって。転じてコレクターが獲物を自分の周囲に広げて悦に入ること。正岡子規が自分の部屋を獺祭書屋と称した。寝床の周りが本だらけだったから。(82頁)
壁面に書棚を置き、その前に積ん読本の山を幾重にもめぐらせたなかに座って、本の整理をしながら「こんな本も買っていたなあ」と手に取った本をつい読んでしまうときのような至福の時間こそ、獺祭的状況と言うべきなのだろう。わたしにも身に覚えがある。
ひとえにわたしの理解不足に帰するのかもしれないけれど、似たような登場人物が多いためすんなりした理解が阻まれ、知的スリルで読ませるわりにはごつごつして読み進みにくい。
満州の映画を追究してゆく主要人物の一人深草五郎の妹芝美という女性は、そんな男性登場人物のなかにあって、面白いキャラクターかと思っていたが、掘り下げられず終わってしまう。物語自体も「獺祭」を表現しているかのようだ。
そもそも本書で取り上げられている満州という場所も混沌をはらんでいる。謎が多く、たとえば本書に登場する甘粕正彦のような謎めいた人物も暗躍しうる余地が存在する。本書帯に直木賞受賞作でもっとも高価な単行本は?」「答えはすべて本書の中!」というトリビアルなコピーで関心を惹こうとしているが、この“もっとも高価な直木賞受賞作”も満州と深く関係があることが披露されている。
池島信平も、一時期満州文藝春秋社の経営のため満州に滞在していた。昨日触れた『雑誌記者 池島信平』によれば、満州にいることが苦痛で何度も帰国を申し入れた挙げ句、ようやく帰国を認められたという。その満州文藝春秋社の責任者が永井龍男だった。
それはともかく、本書はバブルの時期に翻弄される古本屋や切手商、紙くず屋たちの群像を通し、バブルという社会経済現象が古書籍、さらには出版業界、ひいては日本の文化に及ぼした影響が批判的にとらえられている。
新聞連載終了後、単行本化にさいし加筆された最終章のなかで、三代続いた神田の古本屋を閉め、無農薬野菜流通運動に取り組んでいる人物の口を借り、こう憤懣を漏らす。
バブル時代に、教養が落としめられた。バブルが死んでも、そのままだ。教養主義をせせら笑う輩の横行だ。日本の古典を読む者は、時代遅れ、とけなす。『日本古典文学大系』がたった百円。文庫が最低五百円の時代に、菊判六百ページの本が、だよ。生涯をこの一冊に注ぎ込んだ研究者への敬意が、百円はないよ。(312頁)
さらに次の言葉は名言だ。
古本屋が見捨てた本は、この世から確実に消える。しかし古本屋が後生大事にすれば、今度は古本屋が死ぬことになる。(同上)
引退した古本屋主人の激烈な批判はとどまるところを知らない。この加筆された最終章「古本屋は安い」は、長篇『かわうその祭り』を離れ、一篇の短篇小説としても通用するような、強い余韻を残す文章である。

*1:ISBN:4022500123

*2:本書のなかで「満州」は「満洲」と表記されているが、ここでは「満州」としておく。

澁澤龍彦署名本で壊れた

澁澤龍彦太陽王と月の王』(大和書房)
カバー・帯、600円。棚から取り出して値段を見ると600円とある。「ずいぶん安いなあ」と感じたが、既所持・既読の本ゆえ買うつもりはなかった。ところが見返しを見てびっくり、あの特徴のあるサインが入っている! 心臓が止まるかと思った。澁澤の署名本は一冊持っているが、ジャリ『超男性』の翻訳本なので、著作では初めて。こんな出会いがあるんだなあ。今年ブックオフでの最大の収穫。この店にもう一冊、『フローラ逍遙』の元版も並んでいたが確認しなかった。こちらは2000円付いていた。
山藤章二(絵)吉川潮(文)『芸人お好み弁当』(講談社
カバー・帯、1000円。新刊で並んでいたとき(3月刊行)から気になっていた本だったが、迷っているうちに時間が過ぎていた。ISBN:406212792X
三木卓『となりのひと』(講談社
カバー・帯、950円。いままで見たことがない短篇集だったし、“スリム帯”にも惹かれた。ISBN:4062050366
都筑道夫都筑道夫コレクション《アクション篇》 暗殺教程』(光文社文庫
カバー、450円。ISBN:4334735096
都筑道夫『ときめき砂絵』『いなずま砂絵』『おもしろ砂絵』『まぼろし砂絵』『かげろう砂絵』『きまぐれ砂絵』『あやかし砂絵』『からくり砂絵』『くらやみ砂絵』『ちみどろ砂絵』『さかしま砂絵』(以上すべて光文社文庫
各カバー、105円。この「なめくじ長屋」シリーズは、山藤章二さん装幀の角川文庫版で集めようと思っていたけれど、シリーズ全11冊、すべて105円で並んでいたので、あとでどれを買っていないのか悩まないように、このさいすべて買っておくことにした。これで後顧の憂いなし。角川文庫版も集めよう。
高橋義孝『粋と野暮のあいだ』(PHP文庫)
カバー、200円。エッセイ集。ISBN:4569260403
畑山博『いつか汽笛を鳴らして』(文春文庫)
カバー、100円。表題作は芥川賞受賞作。収録作のうち「こま」は、『滝田ゆう名作劇場』(講談社漫画文庫、ISBN:4063601587)で漫画化され、気になっていた作品のひとつだった。ISBN:416740401X
阿川弘之『南蛮阿房第2列車』(新潮文庫
カバー・帯、100円。ISBN:4101110131
高田文夫『正しい団塊の世代白書』(講談社文庫)
カバー・帯、200円。昭和23年という団塊の世代に生まれた高田さんが、少年時代の昭和30〜40年代を振り返った「戦後芸能スポーツ文化史」。章立てが「噺家篇」「プロ野球篇」「歌謡曲篇」などジャンル別になっており、この世代をモデルに小説を書くとき使えそうだ(冗談)。ISBN:4061855085
小林信彦『喜劇人に花束を』(新潮文庫
カバー・帯、200円。昨日途中まで映画を見て印象に残った伊東四朗に対する評論が収められている。見てみると「進め!ジャガーズ 敵前上陸」のことにも触れられている。あれはもともとスパイダース出演予定だったのか。ISBN:4101158304

今日ブックオフで入手した澁澤龍彦署名入『太陽王と月の王』は、ブックオフ歴最大の収穫かもしれない。収穫ということで言えば、去年の小林信彦『監禁』(角川文庫)以来の事件。これで完全にネジが一本はずれ、歯止めがきかなくなった。

屈託だらけの夫、屈託のない妻

「夫婦」(1953年、東宝
監督成瀬巳喜男上原謙杉葉子三國連太郎小林桂樹岡田茉莉子藤原釜足/滝花久子

上原と杉は結婚6年目を迎える夫婦。上原は電気関係の商社に勤めているサラリーマン。杉の実家は鰻屋で、両親(藤原釜足・滝花久子)は健在、店は兄(小林桂樹)が継いでいる。岡田茉莉子は杉の妹役(やっぱり可愛い)。
この両親から娘婿の上原は「パチッとしない」「起きたんだか、転んだんだか、ちっともはっきりしない」などと酷評されている。とにかくあまりシャキッとしていない人物として描かれる。
子どものいないこの夫婦、住宅難により、間借りをする家を見つけるのに苦労している。ようやく、妻を亡くしたばかりの同僚三國連太郎の家の一階を借りられることに。ところが三國が杉に好意を持ちはじめ、これを察した上原に屈託がたまり、杉への対応もとげとげしくなって夫婦に亀裂が生じはじめる。
屈託が少しずつ蓄積して次第に苛立ちを見せる上原の変化がゾクゾクするほどうまい。見事に肝っ玉の小さい人物になっている。これに対して杉の屈託のない明るい妻もいい。村川英編『成瀬巳喜男 演出術』*1ワイズ出版)によれば、もともとこの役は原節子がやる予定だったのが、彼女の病気により杉に回ってきたのだという。
「夫婦」は傑作「めし」の翌々年制作された映画で、これが上原・原コンビだった。妻が原節子だとしたら…と想像して、「めし」のような倦怠期夫婦を重ね、これもまたいいかもと思ったけれど、制作公開された時期のことを考えると、同じ顔合わせで似たような夫婦物が続くというのも、ちょっと問題だったかもしれない。いずれにしても杉葉子の妻(当時24歳)は若々しく、明るく朗らかで好ましい。
晦日に亀裂が深まった二人だが、何とか持ちこたえ、その後三國の家を出て新しい家で間借りを始める。そこは子どものいない夫婦ならという条件で借りたものだが、引っ越し当日、杉は妊娠したことを告白し、これを聞いた上原は堕ろすことを促す。一悶着あって、ラストには救いがある。ここで初めて上原は強く自分の主張を妻に示すのである。
ひと間の間借りで暮らしていかなければならなかった、昭和20年代のサラリーマンの夫婦生活に思いを馳せる。いまは贅沢だなあ、とも。三國連太郎が登場するとつい笑ってしまうのはなぜだろう。この時期の三國は、何ともユーモアにあふれるキャラクターを多く演じているように思う。
これに対する上原の渋面。芸者にコートのほつれを笑われて憤慨し裏地を破り捨て、その後杉がこれまでたまっていた夫に対する憤懣を愚痴愚痴とまくしたてるあたりのシークエンスがこの映画の見どころだろう。