第11 浅野川の濁流から王道へ

先日出張ではじめて金沢の町を訪れた。これまで不思議と訪れたことがなかった。一度特急で通り過ぎたことがあるだけである。仕事柄「加賀百万石」の町にいつかは訪れることになるだろうと思ってはいたが、ようやくそれが叶った。
前泊だったため、金沢の町を歩くのはその日しかないと、午後早めに町に入る。あいにくその日は加賀に豪雨が襲った日であった。でもその日を逃すと自由に町を回る時間は得られない。ホテルに荷物を預け、強い雨にはほとんど役に立たない小さな折りたたみ傘を手に、町へ出た。
金沢の町を訪れるにあたり、いくつか予習をしようと思った。鏡花・犀星・秋声、そして吉田健一の『金沢』。どれを金沢に携えていこうか、書棚から本を引っぱり出しては元に戻すことを繰りかえした挙句、結局先月岩波文庫から出たばかりの『鏡花随筆集』*1一冊のみを旅行鞄に詰めこんだ。
出張の常で、あまり本は読めない。最近新幹線や特急に乗っているときは、音楽を聴きながらぼんやり車窓に流れる風景を眺めたり、居眠りをしたりすることがほとんど。いま抱えている仕事に関する資料もいくつか携えていったけれど、ほとんど何もできない。『鏡花随筆集』では、「加賀ッぽは何だか好かない」という痛烈な一節がある「自然と民謡に」や、加賀の一年の風物詩をさらりと描いた「寸情風土記」を楽しんだ程度だった。
金沢に着いて目指したのは、長きにわたる憧れであった泉鏡花記念館と、そこから浅野川を渡った近くにある徳田秋声記念館の二ヶ所。雨は強いけれども、さいわいホテルから遠くはない。まず鏡花記念館に飛びこみんだ。こぢんまりしていたことに意外な感を抱く反面、いかにも鏡花らしい雰囲気に満たされていることに喜び、またようやくここを訪れることができたという感動で胸がいっぱいになりながら、館内をひとめぐりする。
そうしたら、ロビーに設置されていたテレビには、種村季弘さんが鏡花を語ったビデオが流されていて、その素敵なめぐり合わせに重ねて感激した。来る前には、ちくま文庫泉鏡花集成』をめくりながら、巻末の種村さんによる解説を拾い読みしていたのだから。
鏡花記念館を出ると、雨がいっそう激しくなっている。浅野川の岸に出ると、いまにも堤防を越えるのではないかというほどの濁流で、橋を押し流さんとする勢いで水が橋桁にぶつかっている。怖かったけれど、勇気を出して浅野川大橋から秋声記念館目の前の梅の橋まで歩き、浅野川大橋よりずっとかぼそい梅の橋を渡って秋声記念館にたどり着いた。
秋声についても、来る前に『爛』や『黴』をめくったりしていた。一階には、本郷森川町にいまも現存する秋声旧邸の居間が再現され、二階では秋声の文学者としての足跡がわかりやすくたどられている。特別展示は秋声の児童文学。自然主義文学の巨匠、こういう作品も書いていたのかという意外性がある。
秋声文学館では、秋声作品のオリジナル文庫を刊行している。今回は、短編小説傑作集2『車掌夫婦の死・戦時風景』を購う。ホテルに戻ってから、冒頭の一篇「北国産」を読む。社会の底辺で来日中国人相手の娼婦をしながら、東京でお金を貯めて、郷里の越後に帰ろうとする主人公。しかしそれも挫折する。寒風が身体のなかを吹き抜けていくような酷烈さに、出張中に読む作品ではないなと、この一篇きりで読むのをよした。
秋声記念館で知ったのは、短篇「町の踊り場」の舞台が、鏡花記念館のすぐそばであるということ。帰ってから、さっそく「町の踊り場」を読み返したことは言うまでもない。先日丸谷才一編『花柳小説傑作選』*2講談社文芸文庫)にて再読した記憶かまだ新しいが、金沢の町の位置関係を把握したうえで、「町の踊り場」があったあたりの景色を頭に浮かべながら読むと、いままで二度の読書で感じなかった興趣をおぼえるのだから不思議である。
そこで次に、わたしに「町の踊り場」なる小説を教えてくれた堀江敏幸さんのエッセイを探す。しばらく散文集をひっくり返して、ようやく見つけた。最初の散文集『回送電車』*3(中公文庫)に収められた「梗概について(正)」。そこでは、小沼丹による「町の踊り場」の梗概のまとめ方に光があてられている。
当然そのあと、堀江さんが紹介した小沼丹の一文を全集に探す。未知谷の全集第四巻に収められた随筆集『珈琲挽き』中の一篇、その名も「「町の踊り場」」。
以前もおなじようなたどりかたをしたように思う。秋声の短篇から堀江さん・小沼さんという小道。でも金沢を訪れ、秋声記念館をひととおり見たあとにあらためておなじ小道を歩むと、それぞれの文章がより鮮明に頭に残るような気がするから不思議だ。たとえば小沼さんが「町の踊り場」の「梗概」をまとめ、この短篇に関する思い出をひととおり語ったあと、最後に秋声作品の印象を次のように締めくくる。

昔読んで感心した作品と云ふのは幾つもある。しかし、暫く経つて読み返してみると案外面白くない。こんな筈ではなかつたと云ふ場合も尠くない。秋聲の作品は、どうもその逆ではないかと思はれる。最初読んで、格別の感銘は無い。しかし、時が経つて二度三度と読むと次第に味が出て来る。殊に晩年の短篇にはそんな所があるやうに思ふが、これは読む方の年のせゐなのかしらん?
わたしが「町の踊り場」に感じたのもまさしくそのとおりだから、ますますこの堀江―小沼という道筋が、秋声作品を楽しむための小道どころか王道のような気がしてくるのである。