歴史を拒むことも

斎藤明美さんの新著高峰秀子の流儀』文藝春秋)を読み終えて、深いため息をついた。この本で書かれた高峰秀子さんのような人間に憧れる。ああいう人間になりたいけれど、本当にそうなったときの自分が想像できない。いろいろ複雑な思いが頭のなかを駆けめぐった。
ひとつたしかなことがある。本書を読んでいて、高峰秀子という一人の人間の生き方に魅せられて、矢も盾もたまらなくなり、おりから神保町シアターで開催中の企画上映「女優・高峰秀子」を観に行ってしまったこと。
都合が悪いことに、今週は夜に予定の入っていた日が多く、観に行くことが可能なのは水曜日のみだった。今週夜(最終回)の上映作品中、正直いえばもっとも観たかったのは成瀬巳喜男監督の「女が階段を上る時」だったが、火曜なのであきらめる。水曜はおなじ成瀬監督の「妻の心」だ。これもまた以前観た印象が良かったので(→2005/9/15条)、再見することにしたのだった。
とにかく『高峰秀子の流儀』によって描き出される高峰秀子という人の生き方、考え方、夫婦生活、日常生活のひとこまひとこまが印象深い。印象深く残るのは、そのそれぞれが厳しさを含んでいるからだろう。自分を甘やかさない。自分というものから客観的でいるために、甘えた自分を許さない。
ちょっとした人の集まりに顔を出せば、業界の噂話や愚痴、ついには人の悪口。酒を飲んでそういうことを言い合えばたしかに盛り上がり、そのときは大笑いしてすっきりしたような気分になるのだが、いざ会が終わると自己嫌悪におちいる。
だから、本書のこんな一節を読むと、気分がさっぱりするのだ。

人は易きに流れる。だから会社の帰りに同僚と酒を飲み、上司の悪口を言い、同僚の陰口をきく。お茶を飲みケーキを食べながら、人の噂話に花を咲かせ、世辞を言い合って時間を潰す。それらの行動は実に楽である。互いに互いを甘やかし合って、自分を正当化することに何の努力も要らない。「あなたは間違っている」「私はそう思わない」、そんな会話がそこに存在するだろうか?
世辞と愚痴の中から生まれるものはない。無駄である。
昼下がりホテルの喫茶店で話に花を咲かせているおばさま方を横目に見て、「家に帰って、本でも読め」とつぶやく高峰さんが大好きだ。
2005年に成瀬監督生誕100年をむかえたとき、斎藤さんは、高峰さんがそうした取材を受けないとわかっていながらも、成瀬映画を語るうえで高峰秀子という存在は欠かせないという強い信念から、高峰さんに取材のお願いをした。高峰秀子が語らずして、何の生誕百年かッ。高峰秀子が語ってこそ意義がある!」と意気込んで電話をしたものの、答えはそっけない。「何の意義が?」
生きる映画史として成瀬監督を語ってほしいという願いは、「興味ない」という決定的なひと言でついえる。
黄金時代の映画スターたちがいまや70代、80代という年齢を迎え、次々と訃報が飛び込んでくる。貴重な時代の証言として、映画業界は、彼ら彼女らに対してインタビューを試みる。彼ら彼女らも、自分が生きてきた時代や世界を語ることが、映画史に何らかの意味があることを自覚しているから、積極的に発言をのこそうとする。遅れてきた日本映画ファンとして、それらの回顧録を読むのはたいへん面白い。
オーラル・ヒストリーの重要性が叫ばれ、聞き書きによる歴史像の構築がさかんにこころみられている。それらは文字だけでなく、音声や映像という新しいメディアによって記録されることにより、歴史史料としての重みを増す。
ところがそのいっぽうで、高峰さんのように歴史として刻まれる発言をかたくなに拒否する人もいる。もちろん高峰さんの場合、半自伝『わたしの渡世日記』その他のエッセイ集で、これまで過去を語ってきた。しかしなお映画ファンは高峰さんの発言を聞き、それを歴史として受け止めたいと切望するのである。
高峰さんの態度に接して、歴史の裏側には、このように時代に対して沈黙を守ろうとする人、背を向けて歩こうという人がいることを知り、また実際のところ歴史の表面に出てこない人が圧倒的多数を占めていることを思い知らされるのである。過去は史料のみ、発言者のみから成り立っているのではない。だからこそ、アラン・コルバンの『記録を残さなかった男の歴史』のような研究が生み出されるのだ。
映画、そして成瀬監督についての証言が得られなかったとはいえ、そういうことに対する高峰さんの態度を教えてくれただけでも、斎藤さんの著作は自分にとって大きな意義を持つ。
さて、再見した「妻の心」はやはりいい映画だった。前回はテレビで観たので、スクリーンで観てまた感慨を深くした。とにかく三船敏郎の重厚な存在感がいい。くわえて今回印象に残ったのは、挨拶だった。いまでも脳裏に残っているのは、「ただいま」「おかえりなさい」という帰宅の挨拶が実に多い映画だったなあ、ということ。
二人でちいさな喫茶店を営もうと夢を抱く小林桂樹高峰秀子夫婦のもとに押し寄せる家庭のちょっとしたいさかい。家を継ぐことを拒否して出て行った長男一家が、職を失って実家に戻ってくる。喫茶店を開くお金があるのなら、困っている兄にお金を貸してくれないかという、お金をめぐるトラブルだ。
そんな息のつまるような家にいたくないから、小林桂樹高峰秀子も家をあけることが多くなる。遅く帰ってくると、代わりに家の雑用全般を引き受けている長男の嫁(中北千枝子)が「おかえりなさい」と声をかける。顔はあくまで笑っているが、内心はどうか。ごく日常的な挨拶にすぎない「ただいま」と「おかえり」のあいだにみなぎる緊張感が、やけに心に迫ってくる作品だった。
高峰秀子の流儀