行く雲は見えずして

今年の桜の季節、谷中墓地を訪れるのは今日で三度目になる。この4月で、東京に住んで丸11年になり、東京暮らしは12年目に突入した。東京に住み始めた当初は桜の季節にかかわらず、朝の出勤時しばしばコースを変えて谷中墓地を通ったものだった。
いまでも谷中墓地を通るたびに耳の底から聞こえてくるのは、宇多田ヒカルの「Automatic」はじめ、デビュー間もない頃の彼女の歌声だ。彼女のファーストアルバム「First Love」をMDウォークマンで繰り返し聴きながら墓地を通った思い出がよみがえるのである。条件反射みたいなものか。
いまふりかえってみると「First Love」が発売されたのは99年3月10日だそうだから、やはり購入直後に満開の桜の下、彼女の曲を聴きながら谷中墓地を歩いて通ったのがよほど強い記憶として残っているらしい。東京に住みはじめてちょうど1年経った頃の話である。
ところがいまは世俗の雑事にふりまわされ、またわたし個人が相応に年齢を重ねてゆくにつれ、歩いて通るのは毎年一度、桜の季節のみになってしまった。
ここを通るたびに思うのは、この谷中墓地の桜をあと何度見ることができるのだろうか、そんなことばかり。桜といえば、わが家から最寄駅に歩く途中の道もけっこう綺麗な桜並木になって、この季節目を愉しませてくれる。この土地に住みはじめた頃はそれほど気にならなかったけれど、やはり10年も経てば桜も成長するということなのだろう。子どもも小学校の中学年になった。
さて、谷中墓地を訪れて欠かせないのは獅子文六色川武大、敬愛する二人の作家の墓参である。先日満開の頃訪れたときに二人の墓参をすませたので、今日は色川さんの墓前にだけおまいりする。
たしか命日が今ごろだったはず…と墓石の裏にまわると、平成元年四月十日の命日と、行雲院大徳哲章居士の法名色川武大の俗名、年齢が刻まれている。命日は数日前に過ぎているかと思い墓前に来ると供花がなく、だれもお参りしなかったのかしらんと訝しんだが、そうか、ちょうど今日がご命日だったのだ。
しかも、平成元年は1989年、今年が没後20年になる。今年は松本清張生誕100年だとか、田中絹代生誕100年だとか、何かと惹かれる節目の年であったが、色川さんの没後20年、何か特別な記念出版など企画されていないのだろうか。最近本に関する情報にますます疎くなったわたしは、そんなことを思う。奇しくも購入したばかりの牧村健一郎獅子文六の二つの昭和』(朝日選書)を見ると、獅子文六も没後40年という節目の年なのだそうだ。獅子文六の二つの昭和 (朝日選書)
さて、色川さんの法名「行雲院大徳哲章居士」、イメージより角ばっている印象。「行雲院」という院号は素敵だ。しかしながら今朝の東京谷中は雲ひとつない青空が広がっている。さまざまなかたちの墓石がならぶ墓地の地面には、散った桜の花びら。下の桜色と上の空色で心が浄化される。ユーミンが「経る時」で歌った「薄紅の砂時計の底」がいまの谷中の景色だ。
帰宅して書棚の「色川コーナー」から『うらおもて人生録』*1新潮文庫)を取り出す。座右の書といってもいい一冊。このところ色川さんの「九勝六敗の思想」を意識することが多くなっている。
何か失敗をおかしたり、自分にとって面白くないことがあると、「これは黒星なのだ。最後に勝ち越せばいいのだ」と納得させるところがある。色川さんも本書のなかで「自分のまわりに近寄ってきたさまざまな黒星の可能性の中から、適当なものを選んで自分の黒星にひきこむ」ことが大事だと説く。
いま読み返すと、“プロはフォームと持続が大事”といったずしりと心に響く提言が目に入る。この言葉を肝に銘じ、フォームを崩すことなく次の十年を乗り越えなければならないと決意を新たにした。