ヌーベルヴァーグからの距離

「ろくでなし」(1960年、松竹大船)
監督・脚本吉田喜重津川雅彦/高千穂ひづる/川津祐介/山下洵一郎/安井昌二三島雅夫渡辺文雄千之赫子佐藤慶

時代との関わりという観点から映画を捉えようとする場合、映画を大きく二つに分類できるのではあるまいか。一つは、その映画を観ることによって、映画が制作された時代の様相を知ることができる作品。いま一つは、現代の目から観るとそれほどの喚起力はないものの、制作された時代において強い存在意義を持っていたはずの作品。
両方とも、映画が制作された時代を知るという意味では等価だが、前者は時代のディテールを知ることに有益で、後者は時代の空気を知ることに有益だと言い換えることができようか。
川本三郎さんが『昭和の映画雑貨店』で紹介するような作品はまさしく前者に該当するだろうが、たとえば今回観た「ろくでなし」のような作品は後者に該当すると思われる。
ろくでなし [DVD]いわゆる「松竹大船調」という言葉が具体的像として結ばないわたしのような人間は、あくまでぼんやりと「こういう感じ」というイメージでしかなく、言葉で表現できない。だから、そのなかから出てきた「松竹ヌーベルヴァーグ」という潮流も、だいたいの雰囲気は想像がつくものの、ではどういう作品か説明せよと言われても、言葉に詰まるだけである。
ひと言でいえば青年たちのやり場のない苛立ち、倦怠感。時代に対する違和感。たとえば日活の「狂った果実」を思い出す。奇しくも津川雅彦が両方に主演している。俳優津川雅彦の代表作として、この「狂った果実」「ろくでなし」を挙げることができるのだろう。
だからたぶん、「松竹ヌーベルヴァーグ」は、その時代においてこそ衝撃力があったのであり、この作品が衝撃力のあった時代とは何かということを考えるうえで有効なのである。
津川雅彦川津祐介が見せる大人の社会に対する拒否反応はむろん、川津祐介の父三島雅夫(会社社長)の秘書である高千穂ひづるの、滅多に感情を表に出さない乾いた雰囲気が見事に映画を引き締めている。
大人の社会の代表である三島雅夫の嫌らしい雰囲気が素晴らしい。人が良さそうに見えながら、実はひと癖もふた癖もあるような、煮ても焼いても食えないオヤジ。こんな役柄に三島雅夫という俳優さんは絶妙な存在感を示す。