第7 富山のまぼろし

富山電気ビルディング

仕事で富山市に出張した。同じ日本海側の県に生まれ育った者なのに、失礼ながら最初は、東京から飛行機で行かねばならないだろうと思い込んでいた。ところが上越新幹線と特急を乗り継いで3時間30分弱で行くことができるのである。
わたしの乗ったルートは、上越新幹線越後湯沢で、当駅発の特急はくたかに乗り換えるもの。北越急行ほくほく線)を通るルートである。越後湯沢といえば、「トンネルを抜けるとそこは雪国であった」の『雪国』の舞台だが、期待どおりトンネルを抜けたら真っ白な風景が待っていた。もっともまだ地肌が見える程度の積雪量。もっと深い雪に覆われた銀世界をイメージしていたが、そんな本格的な冬はまだこれからなのだろう。
ちょうどわたしが乗った特急が出発しようとしたとき、下り特急が急停車するというトラブルが発生し、安全確認のため各踏切に駅員が向かうということで、はくたかの出発が40分以上遅れてしまった。富山には50分ほど遅れて着いた。その日の夕刊によれば、信号機故障であった由。
わたしの乗った便には、和倉温泉行の車輛もあったのだが、このトラブルのため金沢止まりにするという車内アナウンスが流れる。和倉温泉を目的地にしていた人たちは、待たされたうえに運休ということで、さぞや憤慨したのではあるまいか。もっともその後和倉温泉へ向かう七尾線が分岐する津幡駅から臨時特急を出すということになったというので、なぜかわたしも安堵する。
直江津を過ぎたあたりから日本海が見えだし、電車が富山県に入って魚津に入る頃、思い出すのはやはり江戸川乱歩の名短篇「押絵と旅する男」だった。魚津に蜃気楼を見に行った男が、帰りの電車で遭遇する幻想譚。

汽車は淋しい海岸の、けわしい崖*1や砂浜の上を、単調な機械の音を響かせて、際しもなく走っている。沼の様な海上の、靄の奥深く、黒血の色の夕焼が、ボンヤリと感じられた。異様に大きく見える白帆が、その中を、夢の様に滑っていた。少しも風のない、むしむしする日であったから、所々開かれた汽車の窓から、進行につれて忍び込むそよ風も、幽霊の様に尻切れとんぼであった。沢山の短いトンネルと雪除けの柱の列が、広漠たる灰色の空と海とを、縞目に区切って通り過ぎた。(光文社文庫版全集第5巻、13頁)
これから語られるだろう不思議な話の導入部として、まことに見事な風景描写である。まさか「押絵と旅する男」の舞台を、それと同じ鉄道に乗って味わえるとは思っていなかったから、じんわりと感動する。
魚津駅には、「蜃気楼の見える町」(不正確)という看板が掲げられていて、蜃気楼が見えるのは春3月から5月にかけての頃らしい。魚津付近の日本海を眺め、その向こうに何か見えると、「すわ蜃気楼か」と喜んでしまうが、これはおおかた能登半島なのである。右に日本海、そして左には屏風のような、雪化粧された立山連峰の山並みが続く。いっぺんでこのあたりが好きになってしまった。
富山では観光するいとまがなかった。事前に下調べをきちんとしなかったため、夜も「富山ならでは」という味(魚)を堪能したというわけでもない。そのあたり悔やまれるが、まあまた訪れる機会もあろう。仕事だから仕方ない。
宿泊したホテルの近く、交差点の角を玄関にして、二辺に雄大な威容を見せる古めかしい建物があった。デザインがモダンなので、きっと戦前の建物かと予想したが、近づいてみると意外にタイルが綺麗なので、どうなのかと訝っていた。二日目に仕事先でいただいた図録のなかにたまたまこのビルが登場しており、「富山電気ビルディング」という名前で昭和11年(1936)に建てられたものであることを知って、自分のアンテナが錆びていないことを喜んだのである。
ネットで検索してみると、ホームページがあった*2。驚いたことに、ここもホテルだったのである。昭和11年日本海側で三番目のホテルとして開業したと紹介文にある。てっきりオフィスビルかと思っていた。
最終日に駅前で解散したあと、帰りの便まで時間があったので、その電気ビルディングを撮影し、また駅前をぶらぶら歩いた。すると、気になる看板が目に入る。「シネマ食堂街」というもので、大通りに面した古ぼけた建物の間からそれが続くらしい。その建物は銅板貼りではないものの看板建築のように通りに面したファサードが平面で、でも斜めから見るとファサードの裏がふつうの瓦屋根であることがわかる。
さらにその奥まったほうに、「シネマ」と名づけられた由来が想像できるような、そんな建物がちらりと見える。さっそく反対側に回り、やはり同じ看板が出た路地を入って見上げると、ゾクゾクするようなこんな建物が目に飛び込んできた。

どうも映画館自体はもう営業していないらしい。富山駅の目の前にありながら、大きなホテル(東横イン)の建物の背後に包まれるように隠れて、外からまったく存在がわからない一種異様な空間。その路地には人っ子一人いない。入ってこようという人もいない。
映画館に附属するように、建物の一階や周囲に「食堂街」が形成されていたとおぼしく、まるで地下街のような暗い通路に店の看板が連なる。食事時だったのにこの雰囲気だから、もう店も営業していないのだろうか。テケツだったとおぼしいガラス窓の右側に、迷宮のようなトンネルが続いて、そこも食堂街であるらしい。テケツ跡の前には鳥居がある。

これまたネットで調べてみると、当の「シネマ食堂街」のホームページがあった*3。驚いたことに、映画館はつい最近まで営業していたらしいのだ。残念ながら今年8月に閉館されたのだという。食堂街も同時に閉鎖されたのだろうか。
映画館は昭和34年(1959)に開館し、「文化の香り高い短編映画と各社のニュース映画」を上映したという。駅前の立地といい、その頃はさぞや人が集まる賑やかなスポットだったに違いない。昭和30年代の抜け殻を目の当たりにした衝撃で、しばらく足を動かすことができなかった。とはいえ、臆病者のわたしのこと、路地奥探検をためらってしまったのは、いま思えば悔やまれる。
映画館がまだ営業していた頃に訪れた方のブログを見つけた*4。やはりわたしが目にしたたたずまいとは大違いだ。
富山の町にはまだ市電が健在である。前述した富山電気ビルディングの前を市電がガタゴトと通り過ぎる姿は実にいい。地方都市の空洞化が叫ばれて久しいけれど、案外富山の町にそんな雰囲気が感じられず、逆に活気を感じたのは、市電があるからかもしれない。
帰りの電車。富山と言えば「鱒ずし」だが、あえて「ぶりずし」を選んでビールをごくり。薄切りされた蕪と一緒に酢でしっかり締められた寒鰤とご飯がマッチして、ほっぺたが落ちそうになるくらいうまい。すっかりいい気分になって黒部あたりから居眠りを始める。
押絵と旅する男」から「富山シネマ」まで。富山という地方、町を味わい尽くせたわけではないものの、まぼろしのような風景に出会ったことで、すっかり満足してしまったのである。