記憶と人間社会

明日の記憶

多少ペースが落ちたとはいえ、読書から遠ざかったわけではないのである。読んでいるのだが、感想を書く時間がない。いや、書く時間がないと言ってしまえば嘘になる。書く余裕がない、書くために読んだ本の内容をまとめ、それについてのあれこれを頭のひきだしからひっぱりだして文章として紡ぎだすための精神的なゆとりがないと言うべきだろうか。そんな日々が、ここ一ヶ月以上続いている。
かくして、買ったまま読まないいわゆる積ん読本にとどまらず、読み終えても感想を書かずそのまま内容が忘れ去られてゆく「読後積ん読本」も増える。情けないことである。ここは余裕がないなどと泣き言をいう前に、無理にも余裕をこしらえて、読んだ本を反芻すべきだ。
読みながら、感想を書こうとしてしばらく経ってしまった第一にあげるべき本として、荻原浩さんの文庫新刊明日の記憶*1光文社文庫)がある。
このところ『博士の愛した数式』など、記憶がらみの本(小説)を読んでいるが、これは偶然ではない。ふとしたきっかけから記憶というものに関心をもち、これを本職の仕事と結びつけて考えていこうと思って以来、記憶にかかわる本が気になってしょうがないのである。
その過程で、川本三郎さんの『映画を見ればわかること2』*2キネマ旬報社、→10/25条)で触れられていた記憶に関する一文がひっかかり、そこで挙げられていた『博士の愛した数式』や『明日の記憶』を読もうと志したのである。『明日の記憶』がちょうど文庫に入ったのは幸いだった。
そして『博士の愛した数式』のときと同様、小説を読んでから映画を観ることにした。渡辺謙主演であることを知っていたものの、なぜか原作を読んでいるあいだは、主人公のイメージと渡辺謙が不思議に重ならなかった。『博士の愛した数式』のときは寺尾聰の姿以外に想像できなかったのとは大違い。逆に主人公の妻役である樋口可南子の姿は原作とピタリ重なる。
50歳にして若年性アルツハイマーを宣告された広告代理店部長の話。仕事に関係することを忘れることはまだいい。家族のことを忘れていく、娘の姿や名前、生まれたばかりの孫の姿、妻の名前などを忘れていくのが辛い。そんなくだりに思わず胸が熱くなる。
明日の記憶 [DVD]映画は渡辺謙アカデミー賞にノミネートされた直後に作られたこともあってか(また自身この映画の「エグゼクティブ・プロデューサー」という立場で関わったようだ)、“名優渡辺謙”をとくに強調しようとしたところが多かったように思う。後半部分が原作から改変されているが、これもそうした方向になっている。“名優渡辺謙”の演技を見せるための改変という印象。
だからといってそれがマイナスポイントにはならない。さすが渡辺謙、うますぎるのである。だから嫌味でないし、そんな改変も「あり」だなと納得させられる。同じくアルツハイマーを患っている老陶芸家を演じた大滝秀治は素のまま(むろんそんなことは考えられないが)という雰囲気で笑ってしまう。
原作でもっとも印象に残った文章は次のものだ。

記憶がいかに大切なものか、それを失いつつある私には痛切にわかる。記憶は自分だけのものじゃない。人と分かち合ったり、確かめ合ったりするものでもあり、生きていく上での大切な約束ごとでもある。陶芸が小さな一工程を失敗しただけで、器にひびを入れ、形をだいなしにしてしまうのと同様、たったひとつの記憶の欠落が、社会生活や人間関係をそこなわせてしまうことがあるのだ。(250頁)
記憶は自分だけのものでなく、生きていく上での大切な約束ごとだと主人公が強く感じるこの点こそ、わたしが本業の仕事とかかわって記憶に関心をもったテーマに近いものだった。記憶は一人の人間を超えた社会性を持つ。これは「集団的記憶」ということにもなるだろうが、そんな記憶が積み重なって歴史が生まれる。
記憶の積み重なりとしての歴史と、実際あった事実は同じかもしれないし、まったく違うかもしれない。そんなズレを認識するためにはどんな切り口が必要なのだろう。