ゆく川の流れは絶えずして

川の光

夏休み最終日の出来事。むろんわたしのことではない。長男の話。毎日毎日、一日何度も、父親からも母親からも「宿題やりなさい」と口を酸っぱくして言われたにもかかわらず、工作などをさっぱりやろうとしないまま、最終日を迎えた。
土壇場になって頼られても手伝わないからな、と釘を刺していた。とうとう母親の雷が落ちる。自分にも一日延ばしに先送りしているような仕事があって、まるで自分も叱られているかのような気持ちになるので居たたまれなくなった。まだじっとしているには暑苦しいが背に腹は代えられないので、やむなく本置き部屋に逃げ込み、慌てて積ん読山の山頂にあった本を手に取って読書に集中しようとした。
それでもなお雑音を遮断できるわけではないので、とうとう本を手提げ袋に放り込んで「散歩に出る」と称し家を出た。父親失格だろうか。でも、最終日に親が子供の代わりに工作をやってあげるなんて甘やかすことはしたくない。
自転車で近所のブックオフに出かけ帰ってみると、工作は意外なほど順調に捗ったらしく晴れやかな顔をしている。心配は杞憂だった。帰りがけスーパーで家族の人数分のアイスクリームを買っておいて良かった。
さて、叱られる長男を尻目に手に取った本とは、松浦寿輝さんの新作長篇川の光*1中央公論新社)だった。大当たり、めっぽう面白い小説だ。読み始めるやいなや気持ちをぐいっとつかまれ、そのまま強い力で物語のなかに引きずり込まれる。
文字を追いかける目が次の行へ次の行へと先走りたくなるのを我慢しながら読み進めようとしたけれども、引っぱられる力の強さに負け、斜め読みのように通り過ぎてしまった部分が多い。外に出ようとしたのも、部屋で囓った冒頭からいきなり物語に惹き込まれてしまい、これは静かなところで読む必要があると思ったゆえでもある。
人間による川の暗渠化工事のため、住み慣れた巣穴を追い出されたクマネズミ一家が、新しい住み家を求めて旅する冒険物語。『読売新聞』夕刊連載とのことで、新聞連載小説がこうした動物を主人公にする冒険物語というのは異例なのに違いない。「あとがき」で、松浦さん自身も異例に思ったので担当者に恐る恐るうかがいをたてたところ、あっさりOKが出されたので、読売新聞文化部の度量の広さに感動したとある。
帯に「空前の反響を呼んだ新聞連載」とあるが、読んで納得。こんなスリルに満ちた冒険譚をドキドキしながら毎日読み進めることができた読者はさぞや幸せだったろう。
母ネズミは早く死んでしまい、父と二歳になるタータ、一歳のチッチの三匹が、住み慣れた川沿いの巣穴に別れを告げ、同じ川沿いの住みやすい場所を探し求め、上流へと遡行する。まわりは敵だらけ。川は途中ドブネズミ帝国の縄張りがあるため通せんぼうされ、迂回を余儀なくされる。空からは猛禽類が虎視眈々と狙っている。猫にも注意しなければならない。もちろん人間も。
そして人間が住んでいる町は小さなネズミにとっては危険だらけ。一行は鉄道の駅がある繁華街を抜け、線路の向う側にどのようにして到達できたのか。しかも季節は冬に向かって少しずつ寒くなる。冬で地面が固くなる前に新しい住み家を見つけて巣穴を掘り、越冬のための食べ物を蓄えておかなければならない。厳しい自然も敵となる。
数々の障害を乗り越えるには仲間の助けも不可欠だった。最初の巣穴近くに住んでいる犬(松浦さんが飼っている犬がモデルだという)や、モグラ一家、ドブネズミ帝国に叛乱を企てて失敗し図書館に逃げ込んで起死回生を狙うネズミ、雀の家族や、風変わりな猫、そして猛禽類ノスリに捕えられた弟チッチを助けた小学生の男の子圭一君、圭一君がチッチを預けた田中動物病院の先生夫婦などなど、心暖かい仲間との出会いと別れを経験し、タータとチッチの兄弟は成長しながら、一家は安住の地を目指す…。
人間によって巣穴が危機に瀕しているということが発端となっているように、人間文明の傲慢さに対する批判が根底にあるわけだが、だからといってエコロジカルな視点で自然破壊反対を声高に叫んだりしない。
地球には人間以外にも、このネズミのように小さな命だって精一杯生きているのだという考え方が、宇宙との対比というマクロからミクロへのダイナミックな視点で、また細やかな語り口で展開されているけれども、それがある種狂信的なヒューマニズムによっているわけでもない。それぞれのまなざしは絶妙な地点で品よく抑制され、冒険譚の面白さを損なわないように背後に隠されている。
一時図書館に身を隠したタータと、ドブネズミ帝国に反抗して図書館に住みついたグレンの会話。

「読む? 読むってどういうこと?」

「本のなかのしるしを、もう一度言葉に戻すことさ」とグレンは言った。「言葉をしるしに置き換えるのを『書く』、それをまた言葉に戻すのを『読む』というんだよ」(89-90頁)
その前のところで、本というのは言葉をしるしに置き換えたもので、その染みをつけた紙を束にしたものだという会話がネズミ親子の間で交わされる。現代に暮らすわたしたち人間にとって自明である読み書きという営みがネズミたちの会話によって相対化される。それがネズミ同士の会話で展開されることで、コミュニケーションは別に『書く』『読む』の置き換えだけではないことに気づかされる。
冒険の途中では、モグラ一家の住む公園や、食べ物に困らず寒くない動物病院のゲージの中など、妥協してしまえばそこで一生安穏に暮らせるかもしれない場所があった。気持ちが揺らぐ。でも一家三匹は自分たちの生まれ育った川べりでの生活を選ぶ。
生活というものは出会いも別れもあって、嬉しいことも悲しいこともすぐ過去になる。それは川の流れと同じで、でも川の水は常に新しい。「川と一緒にいるかぎり、ぼく自身もまた、いつだって新しい自分自身になることができる」のである。川は生きることの積極性の喩えである。
最近日常生活でネズミを見かけるといえば、地下鉄の駅で電車を待っているときくらい。この物語に出てくる人間同様、汚らしくて気持ちが悪いと感じてしまうが、読み終えた今、これからは、ひょっとして彼らも冒険の途中なのかもしれないと好意的に見守るようになるのだろうか。