乱歩未発表小説につられて

江戸川乱歩と13の宝石

「乱歩の未発表小説」という一節に目が止まった。ミステリー文学資料館編『江戸川乱歩と13の宝石』*1光文社文庫)の帯にある惹句である。
「薔薇夫人」というそのタイトルには、たしかに憶えがない。さっそく手にとって新保博久さんの解説に目を通してみると、「薔薇夫人」とは、真の意味で未発表の小説であり、草稿が残っているものの、「書きかけ」のうえに乱歩の手跡で「これはよした」と書き込まれているうえ、途中200字詰め原稿用紙にして7枚分の欠落があるとのこと。
新保さんによれば、「薔薇夫人」は、リレー小説の第1回分として乱歩が執筆を担当した「畸形の天女」を書く前に用意していたとおぼしい小説草稿で、半ペラ7枚分の欠落はそっくりそのまま「畸形の天女」に組み込まれたのかもしれないという。
本書に採録した理由について、新保さんは次のように書いている。

「これはよした」と乱歩の手跡で書き込まれているものを掘り起こすのが著者に失礼なのは重々承知だが、乱歩の小説はどんな中途半端なものでも読みたいという読者も少なくあるまい。
さらに「未完成ながら、これまた乱歩ファンにとっては一顆の宝石であるにちがいない」ともある。実際乱歩ファンのわたしにとってみれば、新保さんの言うことに異論はまったくないのであり、本書を手に取ったのも、結局買って読むに至ったのも、ひとえに乱歩未完の小説「薔薇夫人」読みたさにほかならなかった。
“乱歩作品は未完のものほど面白い”というのが、わたしの持論である。リレー小説の第1回を担当することが多かったのも、乱歩は小説の導入部(謎の仕掛け)についてとびきり巧みだったからだと言われている。「畸形の天女」も面白かったように記憶している。
つまり未完小説は、それだけ導入においてとびきりの謎が仕掛けられており、結局収拾がつかなくなって挫折したということになるわけだ。無理矢理理屈をつけて結末まで持ち込んだ作品より、未完のまま放り出された作品(たとえば「空気男」や「悪霊」、また当初挫折してあとから無理に結末が書き足された「猟奇の果」前半部)が面白いのも同じ理由である。
さてその「薔薇夫人」だが、そもそもそれほど長くないうえ、途中7枚分欠落し、尻切れトンボに終わっていることもあって、気が抜けた炭酸飲料のような内容であったが、それでもそのなかに、いかにも乱歩らしい胎内願望や変身願望がちゃんと盛り込まれ、またエロティックな場面まで登場する。贔屓目かもしれないが、一行目から読者を惹き寄せる魅力があって、さすが乱歩と嬉しくなったのである。ただいかんせん小説の体をなしていない。
そもそも本書は乱歩が自ら編集に乗り出した時代の『宝石』誌から選りすぐられたアンソロジーであり、小説と一緒に乱歩が書いたルーブリック(紹介文)も一緒に掲載されているところが売りでもある。
このなかで面白かったのは、「薔薇夫人」を除けば、最初から順に日影丈吉「飾燈」、火野葦平「詫び証文」、徳川夢声「あれこれ始末書 歌姫委託殺人事件」、星新一「処刑」、小沼丹「リヤン王の明察」、飛鳥高「鼠はにっこりこ」である。
日影丈吉「飾燈」は明治東京の山の手と下町の境界のような場所で起きた事件を描いた作品だが、そこにただよう明治東京のノスタルジーは強い印象を残す。日影作品は持ってはいてもさほど読んでいるわけではないのだが、こんな作品ばかりならば、もっと読もうという気にさせられる。
遊び心が充溢し、乱歩のルーブリックと相まって相乗効果をもたらす火野の「詫び証文」に心が軽くなり、先日読んだ最相葉月さんの『星新一―一〇〇一話をつくった人』*2(新潮社、→5/4条)を思い出す星新一作品「処刑」に流れる背筋が寒くなるような現代文明批判に嘆息する。
後年の小沼作品にも通ずるユーモアに富んだ「リヤン王の明察」(『小沼丹全集』第三巻既収)に小沼作品を読みたくさせられ、飛鳥高「鼠はにっこりこ」では、登場人物の一人であるあどけない少女の存在とは裏腹な、人間に対する冷めたまなざしに、読み終えたあとしばらくページをめくる気がしなかった。
同じ趣向でもう一巻編まれるらしいから、それも楽しみである。