読まずに観てから読んだ

昭和が遠くなって

シリーズ物の感想が書きづらいという点では、小林信彦さんの『週刊文春』連載コラムをまとめた最新刊『昭和が遠くなって―本音を申せば』*1文藝春秋)もそうだった。
けっこう同じことを繰り返し書いているというのが理由のひとつだが、良い意味でとれば、小林さんが信念を変えない、太い芯が一本通って決して揺らがないという姿勢にもとづくのだろう。たとえば小泉前政権に対する激烈な批判は何度も何度も述べられているが、そうした枝葉的具体的な言説のみでなく、「自分の目で見たものしか信用しない」という基本的な考え方も一貫している。
それにしても「自分の目で見たものしか信用しない」という考え方の強靱さは驚くべきものだ。これがたとえば戦時中のように過去の出来事に対する回想のたぐいになると、通説に対する異説提起、通説批判になりうるし、そこにあとづけによる客観性が獲得されると、とんでもない説得力を発揮する。だが反面でたんなる自慢話として受けとめられかねないというマイナス面もある。
またいっぽう同時代批評で言えば、小林さんが「自分の目で見たもの」だけを信用し、ある事象を論じる文章を読むと、思わぬ角度からの発想に驚かされ、自分の思い込みを相対化できる。その反面で特権意識的な嫌味がないとも言えない。
こんなアンビヴァレンツな感情を抱きつつ読み進めたわけだが、結局これらコラムを「同時代的」に読みつづけることが、小林さんの見方に対する自分の姿勢が固まることにつながるのだろう。
いずれにしても、相変わらず小林さんのコラムは覿面に自分の行動に影響を与えることは確かだ。本書を読んでいて、ちょうど「映画「ゆれる」の衝撃」と題された一篇にさしかかり、冒頭の一行、

「ゆれる」という映画は、めったにない凄い映画である。(186頁)
という文章が目に入った瞬間、この一篇だけを読まずに飛ばして最後まで読んだ。「ゆれる」自体公開時から気にはなっていたのだが、今月衛星劇場で放映されていることを知っていたからだ。
そして録画した「ゆれる」を観たあと、あらためて小林さんのコラムを読んだのである。まあ読み控えるほど、映画を観る前に読んではいけないということが書かれてあったわけではなく、後半は同じく観た若い女性とたまたまこの映画の話になって盛り上がった情景をスケッチしたエピソードになってしまい、期待したほど映画自体に深く切り込んだ内容ではなかったけれど、やはり観たあとに読んでよかった。
映画は小林さんが激賞するような傑作であった。まず2時間ずっと観る者を惹きつけて放さないサスペンスフルな脚本が素晴らしい。温厚篤実だが、心の底に不気味な闇を抱えている兄(香川照之)と、東京に出て写真家として「成功」した現代的な青年であるが、裏では家に残り実家の経営するガソリンスタンドで黙々と働く兄にコンプレックスを抱いている弟(オダギリジョー)。二人の幼馴染みである真木よう子の死が絡んで、息づまるような兄弟の対決が法廷で展開される。
そこに父伊武雅刀と、その兄で香川の弁護を担当することになった弁護士蟹江敬三の兄弟の反目が、香川・オダギリ兄弟の関係に二重映しとなって投影されるという構造の見事さ。
真木よう子が吊り橋の上から転落死してしまった「事件」の真相は、事故なのか殺人なのか。自分の眼に焼き付いている情景はただひとつなのに、その解釈について、兄との対話やかつて亡母が撮った八ミリフィルムなどをきっかけに心が「ゆれ」てゆくオダギリジョー。兄と弟という男二人兄弟の関係について、思わずわが息子二人のことを考えてしまった。
ちなみに小林さんはこの映画から、成瀬巳喜男監督の「女の中にいる他人」を連想したという。観てからしばらく経っているので細部を忘れてしまっているが、あのサスペンスをいま一度観直してみたくなる。
またこちらの場合読み控えしなかったが、たぶんクリント・イーストウッド監督の硫黄島二部作はいずれ観ることになるのではないかと思うし(でも「ゆれる」と違い大音響が予想されるので不安)、土曜日に新潮文庫版『裏表忠臣蔵』を買ったのも本書の影響にほかならない。随所に影響を残して、またひとつ小林信彦コラムが去っていったのだった。