第4 ちょっと贅沢に鎌倉・葉山

佐伯祐三と佐野繁次郎

埼玉県立近代美術館で「澁澤龍彦―幻想美術館」展を観に行き、ちょうどその日から鎌倉文学館で「澁澤龍彦 カマクラノ日々」という展覧会が始まることを知った。北鎌倉住まいだった澁澤龍彦、いつの日か鎌倉文学館で取り上げられるだろうと期待していたが(もうすでに何度か取り上げられているようであれば、たんにわたしが知らないだけ)、とうとう…とこの連休中に行くことに決めた。
これまたちょうど神奈川県立近代美術館の葉山館のほうで、「佐伯祐三佐野繁次郎」という魅力的な企画展が催されていることを知ったので、葉山・鎌倉をセットに行くことに決めた。家族で行くのは、わたしの趣味に付き合わされるのも申し訳ないし、何かと騒々しいので、長男だけ誘って行くことにする。長男は「海が見れるぞ」という誘い文句でついてくることを決めたようだ。
鎌倉に行くのは久しぶり、葉山を訪れるのももっと久しぶりだ。もとより神奈川県立近代美術館・葉山館は初めてだが、葉山自体は、大学院生時代、恩師を囲んでの鶴岡八幡宮流鏑馬見学で葉山の民宿に泊まった思い出がある。それ以来の逗子・葉山。十数年ぶりということになるだろう。
横須賀線京急線などルートをいろいろ検討した結果、拙宅からは池袋でJRの湘南新宿ラインに乗ることがもっとも早いルートであることがわかり、乗ったことがないので初めて乗ることにした。
天気もいいし、たぶん連休で鎌倉方面は殺人的な人出になることだろう。思い切ってグリーン車に乗ってみることにした。池袋から逗子までグリーン料金750円(乗車券1090円)。二人で片道1500円の出費だが、座れずに行くよりはずっといい。
Suicaの普及はめざましい。グリーン券もSuicaで買うと、カードにグリーン券情報を記憶させ、座るとき座席上方にあるタッチ箇所にSuicaをかざすと、赤ランプが緑ランプに変わり、検札不要になる。途中席を変えるときは、新しい席でSuicaをかざすと、前に座っていた席が赤にもどる。感心してしまった。
グリーン車は二階建てで、湘南新宿ライン15両のうち2両しかない。グリーンといっても自由席だから、満席でも我慢して立っていなければならない。池袋では一階に長男の席だけ見つかり、私は立った。次の新宿で離れた席に座ることができた。次の渋谷で並んで座った。湘南新宿ラインは群馬や栃木から来るので、東京までグリーン車でという人が多いのである。
車内の座席は特急のようにゆったりしており快適。余裕があればグリーン車で行くのにしくはない。
池袋から逗子まで1時間余り。逗子駅前からパスに乗って葉山館に行く。普通自動車すらすれ違いが難しいような狭い道をバスは行く。途中葉山マリーナ。たしか逗子駅は、「狂った果実」で石原裕次郎津川雅彦北原三枝を初めて目撃した場所だった。そして葉山マリーナなどと聞き、そこに並ぶヨットやモーターボートを見ていると、「狂った果実」の真夏の倦怠感のなかに自分もいるかのような錯覚をおぼえる。
神奈川県立近代美術館葉山館は、海に面した解放感あふれる素晴らしい場所にある。館内の展示室も広々としていて気持ちいい。佐伯祐三のパリ風景や自画像などを堪能する。いつも長男を美術館に連れて行くと、すぐ見終えてしまうので、今回は、展示室ごとにもっとも好きな絵を選びなさいという課題を課した。
展示室を出たときに聞くと、けっこう意外な絵を指さしたりするので驚く。子供の感受性に接することは、絵を観るときのまなざしに新鮮な変化を与えられるようだ。わたしは佐伯祐三のパリ風景、とりわけ「サン・タンヌ教会」を選ぶ。重苦しい雲に覆われたようなパリの町並。佐伯祐三と言えば、パリの町角に乱雑に貼られているポスターを描いた絵を思い浮かべる。よく観るとポスターの字はかなりいい加減なのだけれど、離れて観ると「これが1920年代のパリなのだろうなあ」と思わせる不思議なリアリティがある。日本のアトリエがあった付近を描いた「下落合風景」も、あいかわらずよし。
佐野繁次郎は大作がずらり並んでいたが、それよりも、彼の作品を小さいかたちで閉じこめた本の表紙(彼の装幀)がいい。野口冨士男『いま道のべに』の本と函の原画が並んでおり、見入ってしまう。佐伯祐三佐野繁次郎は2歳違い、ともに大阪に生まれ、大阪にいた頃からの知り合いだったという。
絵をひととおり観て外に出る。浜のほうに降りてゆける海岸があって、長男は大喜び。いや実に気持ちがいい。鎌倉を訪れるたび、この付近に住んでいる人の豊かな暮らしに憧れ、住みたい気持ちがこみ上げてくるのだが、住めば住んだで生活しての難点もあるのだろうし、また旅行者的視点で湘南を見るからいいので、住んだらそれが色褪せてしまうと思うと、たぶん一生ここに住むことはないのだろうと諦めの境地になる。
逗子駅にバスで戻り、横須賀線で鎌倉へ。さらに通勤電車なみに殺人的超満員の江ノ電に乗って由比ヶ浜まで。鎌倉文学館を目指す。ここは二度目か。旧前田家別荘を使ったこの建物と、海が一望できる立地に、ここでもため息。
澁澤龍彦 カマクラノ日々」では、草稿が数多く展示されていた。『夢の宇宙誌』の原稿もひととおり保存され、展示されている。あの特徴的な丸っこい字で、走り書きのあとすらない丁寧に鉛筆書きされた原稿や、ブルーブラックの太めの万年筆でおびただしく手直しされた草稿を見ていると、晩年の文業がこのような丹念な推敲作業によってできあがっていたことを知り、再読してみたくなる。
鉛筆で一字一字丁寧に書かれた原稿からは、このゆったりとした(ように見える)筆の動きが、すなわち澁澤龍彦という文人の思考の動きであることがわかる。ワープロでせかせかと文章を作って推敲もままならない自分の方法は、たぶん思考のスピードとは一致しない。思考が完全に置いてゆかれている。
本当なら、隣の長谷にある大仏様を見せたいのだが、子供にとっては大仏より浜遊びらしい。江ノ電稲村ヶ崎まで出て、しばらく子供が波打ち際で波とたわむれているのをボーっと眺める。ただ波がざぶりざぶりと浜に寄せてくるのを見ているだけで飽きない。
帰りは逗子に戻って、逗子始発の湘南新宿ラインに乗り、またグリーン車に座る。疲れたあとのビールはうまい。逗子を発ったときあけた缶を、大船に着く頃に飲み終えてしまった。ひとときの安らぎ。また明日からは仕事である。