時代と心中した三島由紀夫

平凡パンチの三島由紀夫

椎根和さんの平凡パンチ三島由紀夫*1(新潮社)を読み終えた。
著者の椎根さんは平凡出版(現マガジンハウス)の元編集者で、『平凡パンチ』『anan』の編集部員を経て、『Hanako』の創刊編集長も務めた方だというから、その世界では有名な人なのだろう。
平凡パンチ』は1964年に創刊された。椎根さんは1968年に同誌編集部に中途採用となり、1970年11月25日の三島由紀夫の自決まで、3年間三島の担当記者だったという。本書はその3年間における作家・「スーパースター」三島由紀夫との付き合いを回想し、その時代の流れのなかに三島由紀夫という存在を位置づける試みでもある。
本書を読むと、椎根さんは、三島の剣道の弟子として一緒に稽古をつけてもらったり、結婚式でスピーチをしてもらう(写真掲載)といった親しい仲であったにもかかわらず、雑誌記事では、皮肉や揶揄、からかいを込めた三島の記事を書いた。それでもなお三島が激怒したという場面がないのだから、心が大きいというのか、椎根さんが信頼されていたというのか。
いま三島のことを、作家・「スーパースター」と書いた。「スーパースター」というのは椎根さんの定義である。椎根さんによれば、メディアから日本で最初にスーパースターと呼ばれたのは三島由紀夫だったという。そう呼んだのが『平凡パンチ』1969年6月の号なのだそうだ。
70年前後のスーパースターとして並び称されているのが、長嶋茂雄石原裕次郎。三島はそれに比肩する人気を誇っていた。椎根さんはキムタク並みだったとも言う。
長嶋さんは引退しても監督として、あるいは解説者として、病気で倒れてからもずっとスーパースターでありつづけている。いっぽうの石原裕次郎も、ある意味全盛期を過ぎても「太陽にほえろ」などでその地位を保ちつづけた。そして老いる前に亡くなってしまい、その姿は今や映像の中で語り伝えられている。
この二人以上にスーパースターだったという三島は、それゆえに自決を遂げなければならなかったのかもしれない。本書を読むとそれを痛感する。長嶋・石原両人にくらべ、あまりに70年前後の時代に寄り添いすぎたのだ。だから逆に、長生きしたとしても、長嶋・石原両人のようにずっとスーパースターでありつづけることは難しかったのではあるまいか。
本書の末尾近くにショッキングな挿話が語られている。自決直前の9月、『anan』編集部に配属されていた椎根さんは、新年号特別企画として、当時任侠映画のヒロインとして人気があった藤純子(現冨司純子)さんと三島の対談を構想し、当時の木滑良久編集長に提案したところ、「もう三島の人気のピークはすぎた。雑誌が古くさくなるから、それはやらなくていい」と却下されたのだという。
時代の最先端をゆく雑誌に見離された「過去の時代」の寵児。その直後の自殺。思想やら何やら三島自決の真相を突き止めようとする本はいまだ絶えないが、本書を読んでの感想は、“三島を殺したのは時代の流れだ”“三島は時代と心中した”という抽象的な思いだった。
本書は椎根さんと三島由紀夫の付き合いを中心に、『平凡パンチ』という若者向け雑誌が引っぱる文化と三島のつながりを描いた面白い本だったが、それとともに、三島のことと無関係に、その時代の文化潮流だとか、流行思想、庶民感覚、文壇事情など、60年代後半から70年前後までの日本における若者文化の気分を知るうえでとても興味深かった。ビートたけし三島由紀夫の酷似(と相違)について指摘した点など、なるほどと唸らされる。
三島は服装にこだわっていたわりに、靴には無頓着で、普通の黒い紳士靴ばかり履いていたとか、ボーリングが下手くそで、ある大会で一緒にプレイしたあと、「俺について何を書いてもいいが、今日のスコアだけは口外するな」と冗談抜きのまじめな顔で命じた話など、三島についての挿話の宝庫でもある。
それで帯はやっぱり三島の色、オレンジなのだった。