「現代的」な高倉金田一

ミステリ劇場へ、ようこそ。第2幕

悪魔の手毬唄」(1961年、東映東京)
監督渡辺邦男/原作横溝正史/脚本渡辺邦男結束信二高倉健/志村妙子/八代万智子/小野透/石黒達也/北原しげみ中村是好花沢徳衛/神田隆

高倉健金田一耕助を演じたカルトな映画があると知ったのはいつのことだったか。比較的最近だったか、あるいはまだ金田一耕助石坂浩二しかいないと思っていた頃だったか、忘れてしまった。和田誠さん描く高倉金田一のイラストを見たような憶えがあるけれど、気のせいかしらん。
その高倉金田一を観る機会がやってくるなんて、思いもしなかった。“日本映画データベース”で調べてみると、映画で金田一耕助を演じた俳優は12人いる。片岡千恵蔵、岡譲二、河津清三郎池部良高倉健中尾彬石坂浩二渥美清西田敏行古谷一行鹿賀丈史豊川悦司
高倉健版を観たことで、残る未見は岡譲二(「毒蛇島奇談 女王蜂」)、河津清三郎(「幽霊男」)、池部良(「吸血蛾」)、西田敏行(「悪魔が来りて笛を吹く」)4人となった。もっとも岡譲二版は以前CSの“HOROR TV”で流されたのをDVDに録画したから、いつでも観ることができる。池部良版は近々池袋新文芸坐池部良特集で上映されるものの、あいにく当日出張が入ってしまい、残念ながら観ることができない。今後の楽しみとしよう。
さてレアな高倉金田一。愚作という話もどこかで目にしたことがあるような気がするが、そのとおり、お世辞にも面白いとは言いがたいものだった。
悪魔の手毬唄」は二回しか映画化されていない。もう一本は、言うまでもなく市川崑監督・石坂金田一版だ。公開以来幾度も観ていながら、昨年の正月久しぶりに観て、市川監督のシリーズ中これがベストだと感じた(→2006/1/2条)。そのあと、わたしが抱いたような評価を唱えるひとが多いことを知り、自分の感覚に自信を持ったのである。
こういう金田一物中随一の傑作を知っているだけに、同じ原作の本作品を同じ土俵で比べてしまうのだが、それは酷だろうか。
そもそも手毬唄の歌詞どおりに殺人が行なわれないし、犯人も違う。趣向だけ借りてきたといった風情。鬼首村の有力者の家に生まれた娘が歌手デビューし売れっ子となり、郷里の手毬唄をアレンジした新曲「鬼首村手毬唄」を引っさげ凱旋帰郷しようとしたところで何者かに惨殺されてしまう。発端からして違う。
まあこの作品に原作にある雰囲気や市川監督版の完成度を求めても仕方ないだろう。自ずと見方は外側に傾く。最初に殺された流行歌手を演じた八代万智子という女優さんはとても美人。高倉健金田一耕助は、オープンカーの外車を乗り回すすこぶる現代的ですっきりとしたハンサム探偵となっている。
金田一は昭和のモダンボーイだというのが持論だから、少しくらい現代的でも許そう。ただ自分の思うモダンとは、外見でなく、キャラクターからにじみ出る雰囲気とでも言おうか。この点豊川悦司が良いというのは、これまで何度か繰り返してきた。この高倉健金田一はモダンを通り過ぎている。原作が身にまとう土俗的なものが消えている。
原作が推理小説専門誌『宝石』に連載されたのは1957〜59年のことだそうだから、映画化されたのはその直後ということになる。当時の「現代物」と言った感覚で制作されたのに違いない。この頃の高倉健が、東映のなかでどのような位置づけであったのかわからないからいい加減だが、それまで相当の本数の作品に出ているところから見れば一定の地位を確保したあと、彼に金田一をやらせてみよう、そんな趣向だけで作られた映画なのかもしれない。あの寡黙な「健さん」がけっこう軽妙な若者探偵を演じていることに違和感があった。
原作のミステリとしてのトリックや筋立てがほとんど無視されたのは、横溝正史という作家の扱われ方をもうかがわせる。角川文庫による大ブーム以降にかたちづくられた大作家というイメージを、この時点まで遡らせてはいけないのだ。
結局60年前後というあの時代だからこそ、このような作品が出来上がったのであって、後発作品と比べ良し悪しを論じるのは間違っているのだと思う。だから、軽妙な高倉健金田一や、出演俳優のなかでも異彩を放つ中村是好花沢徳衛の怪演、陰険で不気味な役のイメージが強い神田隆による気のいい磯川警部など、それぞれ自分が気になった部分を愉しめればいいのだ。そして一番喜ぶべきは、この高倉健金田一を観ることができたというそのことに尽きるのである。