フィクションとしての「国語」

「国語」の近代史

英語をはじめとする外国語が不得意なのをひがむあまり、得意な人を見るとひねたり、外国語が飛び交う場面から身を遠ざけようとするのは、かわいい嫉妬のようなものか。ただ、英語への反発から「英語教育の前にまず日本語だろう」という考え方に深く賛同するのは、飛躍なのかもしれない。外国観光以前に自分の国のなかにももっと訪れるべき場所がたくさんあるはずだとかたくなに海外旅行を拒むのは、もはや屁理屈である。ナショナリズムなどというある種体裁のいい言葉でくくられる次元の話ですらない。
とはいえ、(ここでいきなり話題が低俗になるが)同じ日本語で書かれたミステリを読むにしても、翻訳文だと頭にすんなり入ってこないのは、たんに舞台が外国だとか、カタカナの人名だとかという表面的な問題だけでなく、これまで数十年の間築いてきた日本語での思考法が骨がらみになっているため、たとえこなれた訳文であるにせよ、外国人が書いた文章の行間にただよう微妙なニュアンスを生理的に受けつけないという事情があるような気がする。
日本語は大好きで、日本語で書かれた文章を読むのが大好きだ。日本語を大事にしたい。教育としてそう教わったゆえでなく、小説やエッセイ、評論を読んでいくなかで自然に培われた考えなのだと思う。
ではそんな日本語とは、いったい何者なのか。自分が好きだと念頭に置いている日本語とは、日本人、日本国民が共有している「国語」と同じものなのかどうか。気鋭の言語史学者安田敏朗さんの『「国語」の近代史―帝国日本と国語学者たち』*1中公新書)を読んでそんなことを考えさせられた。
本書は明治維新後の日本の近代国家設立過程における「標準語」の策定や、帝国日本の植民地における「国語」普及政策、第二次大戦敗戦後の国語政策など、近現代日本の諸段階で「国語」がいかにして形成され、「国民」に浸透していったのか、著名な国語学者たちのたどった足どりを追いながら説きおこした知的刺激に満ちた本である。
その背後には、昨今の「日本語ブーム」に対する批判が込められている。「美しい日本語」を子どもたちに教えよう、日本語を愛そう、日本語を音読しようといった現象の広まりに対し、「世情に対しての批判力をもちつづけることが、学問が学問であるための基盤である」という研究者的良心を掲げた安田さんは、疑いのまなざしを向ける。
そもそも子どもたちに教えようとする「美しい日本語」の「日本語」とは何を指して言うのか。「日本語」とは所与のもの、生得的なものではなく、近代の国民国家形成過程のなかで人為的に定められた言語であって、それが権力(国家)によってどんな意図でどんなふうに作られていったのか、まず知る必要がある。わたしなりに本書の意図を解釈すれば、こんなふうになるだろう。
そもそも明治以前の日本には統一された「国語」など存在しなかった。地域差や階層差をなくし、国民統合のため、明治国家は「国語」の制定を急いだ。その中心的人物が、ヨーロッパに留学して西洋の言語学を摂取した上田万年であった。その結果、日本国民は「日本語」を話す、日本語を話す国民が日本人である、という国民国家論に立脚したフィクショナルな論理が当然のごとく受け入れられた。日本語を解さない「日本人」もいるという事実は認識の外に追いやられる。
明治国家の国土に含まれた地域間には当然さまざまな言語的差異があった。方言である。場合によっては同じ日本語のはずなのにコミュニケーションがとれないという事態に直面することもある。いや、この“同じ日本語のはずなのに”という考え方がくせ者なのだ。統一された日本語(標準語)が所与の前提となってしまっている。
明治国家や草創期国語学者たちの苦闘の跡を読んでいくうち、浮かんできたのは、井上ひさしさんの傑作戯曲『國語元年』*2(中公文庫=テレビ版、→旧読前読後2002/4/30条)だった。『國語元年』はまさに明治初期の国家における言語的混沌を統一していこうというありさまが滑稽に描かれているのである。本書のテーマにうってつけの戯曲であるはずだが、そこに言及されるような遊びがないのは少し残念。
安田さんの本を読んで「日本語」という言葉の虚構性、相対性を強く意識させられたのは、植民地での日本語教育に触れた部分だった。昭和に入っても日本では言語の地方性(つまり方言)が根強く残り、地域差が存在した。いっぽう韓国など当時植民地支配下にあった地域では、「正しい日本語」「標準語」の国語教育が実施されたから、植民地の人びとにとって地方出身の日本人が話す日本語は「変な日本語」に聞こえるのである。「日本語」という言語の虚構性を鮮やかに浮き上がらせた瞬間だった。
敗戦によって「日本語」の抑圧が解かれたかと言えばそうではない。「国語民主化」の名の下に、上から言語を普及統一しようという動きが始まった。「国語」という側面だけから言えば、制度的に戦前と戦後に断絶はなく、またそれを主導した国語学者の思想性からも断絶が見られないという。この議論にも刺激をおぼえる。
国家統一の道具としての言語。「美しい日本語」ブームや漢字ブーム、日本語教育尊重の動向など、知らず知らずのうちに国の思惑にはめられているような気がしないでもないが、自分の場合、個人的な読書活動のなかから自然に日本語への愛着が湧き、外国語(翻訳日本語)への生理的な距離感が生まれているのだから、一線を画していると信じたい。
戦後の国語民主化といえば、やはり井上ひさしさんの『東京セブンローズ』(文春文庫)を思い出す。『國語元年』といい本作といい、井上さんの日本語に対する批判的精神は実に鋭いなあとあらためて感心する。思わず『東京セブンローズ』再読への意欲が湧いてきたのだけれど、どこに置いたか(並べたか、積んだか)、すぐ見つけられなかったのが癪にさわる。