年末の嬉しい贈り物

言葉のなかに風景が立ち上がる

年の瀬も近くなって、待望の新刊が出た。川本三郎さんの『芸術新潮』誌連載をまとめた『言葉のなかに風景が立ち上がる』*1(新潮社)である。
連載時は書店で雑誌を立ち読みし、その連載部分にちらりと目を通すだけで、読むのは本になってからと我慢した。もとより書物の活字と同じレベルで雑誌連載を熟読できない性分なのだけれど。
雑誌連載時から気になっていた、平野甲賀さんによる特徴的な題字に森英二郎さんの風景版画は本の装幀にちゃんと生かされており、これも嬉しい。デザインは日下潤一さん。帯の文字などに使われる特徴的なフォント(何体と言うのだろう)が、今回は本文にも使われている。川本さんの本に日下・森という組み合わせは、『荷風の東京』『林芙美子の昭和』やちくま文庫の川本作品でおなじみのトリオだ。
ただ雑誌では毎回文章を飾っていた森さんの版画がすべて収められているわけではないことが残念である。カバーや扉にカラーのものが各一点と、ところどころにモノクロで何点かのみ。せっかくの芸術新潮連載、森さんの版画も一緒に全収録してほしかった。森さんの版画も愉しむためには連載誌を持っておく必要があるか。
カバーに採用された風景に見覚えがある。山に鉄塔が三つ。赤白の塔だけなら東京タワーと見紛うが、緑に囲まれたなかに三本の鉄塔が密集している風景は仙台をおいてほかにないだろう。
はたして読んでゆくと、この予想は大当たりだった。佐伯一麦さんの『鉄塔家族』を取り上げた「丘の上の静かな暮し」の挿絵だったのに違いない。佐伯さんは仙台在住。『鉄塔家族』は仙台の代表的な住宅地(ただ郊外と頭につけるほど郊外でなく、ほとんど町中のような場所)である八木山近辺に住んだ家族を描いた小説のようだ。

テレビ塔は、新幹線からよく見え、町のランドマークになっている。町の住人は、新幹線の窓からテレビ塔(鉄塔)が見えてくると、家に帰ってきたなとほっとする。(137頁)
仙台の元住人としては、この感覚はまさしく真実なのだ。わたしも新幹線に乗ってあの鉄塔群が視界に入ると仙台に帰ってきたことを実感し、下車の支度を始めるのである。仙台が第二の故郷であるわたしとしては、仙台を代表するような「風景」がカバーイラストにあるだけで嬉しくなってくる。
連載時にきちんと目を通さなかった理由に、取り上げられる対象が現代小説、しかもあまりなじみのない作家の作品が多く取り上げられていることもあった。堀江敏幸『雪沼とその周辺』のように大好きな作品から、角田光代空中庭園』、車谷長吉赤目四十八瀧心中未遂』(この本の文庫版解説は川本さんだ)のような既読作品は珍しいほうで、大好きな重松清さんの章では未読の『定年ゴジラ』が取り上げられ、一番最初に配されている野呂邦暢作品に至っては、大きな関心を持って著作を集めているもののまともに読んだのは『愛についてのデッサン』のみという体たらく。
古山高麗雄佐伯一麦いしいしんじ多和田葉子日野啓三清岡卓行丸山健二はその著書を持っているか、他の著書をかつて読んでいるかしているが、水村美苗後藤明生長嶋有江國香織吉田修一宮沢章夫松本健一柳美里は持っていない。井川博年・佐藤泰志に至っては名前すら知らなかった。
ところが読んでいくと、そんななじみのなさへの心配は無用であることがわかった。「あとがき」にもあるが、本書は先行する『荷風と東京』『林芙美子の昭和』『郊外の文学誌』に結実した仕事での関心と通底しており、それらの川本作品に惹かれたわたしとしては、本書も面白く読むことができたのである。
序文・総論にあたる「風景の発見と創造」では、本書における川本さんの問題関心が明快に述べられている。人間関係にがんじがらめになっているうちは、そのなかにいる人にとって風景は見えてこない。強固な共同体が中心のムラ社会が人びとを覆っていた時代に風景は発見されなかった。風景(自然)は都市社会の成立にともなう「個」の意識の発生により発見されるようになる。
川本さんは、「人間関係にとらわれて」「目が風景に向かうことは少ない」作家と、「家庭を持たず、単独者として生きた人間」ゆえに「現実の向うにある風景を見るまなざしを持つことが出来た」作家を対置する。前者が夏目漱石太宰治坂口安吾ら、後者が言うまでもなく永井荷風である。
当然川本さんの現在の関心は後者に向かっている。わたしも現在は後者の境地に近い。
荷風のような実際の単独者ではなくとも、意識の上で自然に単独者である都市生活者が増えている現代では、とりわけ風景が重要になってくるのではないか。(14頁)
という指摘を読むと、たぶんわたしがこうした風景への目線を獲得したのは、都市生活者として、「意識の上で自然に単独者」としての立場を余儀なくされた(そしてこの立場が自分にとって居心地良く感じた)東京移住がきっかけだったに違いないと思い返すことになったのである。
そんなふうに、「孤独ではない」単独者として、煩わしい人間関係を避けその先にある風景をひたすら見つめてゆこうという意識の萌芽を自らの体験として感じただけでも、本書を読む意味はあった。風景に向けるまなざしに注目して小説を読み解く、そんな新たな読み方を教えてもらったことで、わが読書生活が受けた影響ははかりしれないものになるだろう。