もうひとつの「稲妻」

倍賞千恵子スペシャル

「稲妻」(1967年、松竹)
監督大庭秀雄/原作林芙美子/脚本堀江英雄・大庭秀雄倍賞千恵子望月優子浜木綿子藤田まこと/稲垣美穂子/柳沢真一/穂積隆信/宗方奈美

成瀬巳喜男監督作品中もっとも好きなのは「稲妻」だが、これに大庭秀雄監督版があることは知らなかった。成瀬版は1952年に製作されているから、大庭版はそれから15年後に作られたものとなる。
いっぽうに何度も観てその都度傑作の感を深めている成瀬版があるから、おのずと比較的な視点になることは否めない。脚本は成瀬版が田中澄江だから異なるのだけれど、大筋はほとんど同じであり、やっぱり最後まで緊迫感があって面白かったから、もともとの原作がいいのかもしれないということが、まず気づいた点だった。
配役をくらべてみる。高峰秀子(三女)→倍賞千恵子浦辺粂子(母)→望月優子、村田知栄子(長女)→稲垣美穂子、三浦光子(次女)→浜木綿子、丸山修(長男)→柳沢真一、小沢栄太郎(両国のパン屋)→藤田まこと中北千枝子(次女亡夫の妾)→宗方奈美、植村謙二郎(長女の夫)→穂積隆信、となる。
倍賞千枝子の気の強さ、望月優子のバイタリティ、稲垣美穂子の粋筋っぽさ、浜木綿子の穏やかさ(と裏腹なしたたかさ)、柳沢真一の暢気さ、藤田まことの卑しさ、それぞれ成瀬版のイメージを損なっていない。主演倍賞千恵子などは、成瀬版の高峰秀子よりいいかもしれないと思うほど。
ただ全体としてみればやはり成瀬版が上か。というのも、成瀬版は余白が多く、観る者に想像する余地を与えてくれるのに対し、大庭版はその余白までも説明描写にあてているように感じたからだ。
大庭版は冒頭、高架の高速道路の下(舞台は製作当時の「現代」であることがわかる)で、倍賞千恵子が付き合っていた男性にふられるシーンから始まる。倍賞の家庭事情が男の親には受け入れられなかったらしい。涙をこらえて職場に戻り、仕事に入るものの、仕事をしながら涙がこぼれてくる倍賞。彼女の仕事は企業の電話交換手である(成瀬版はバスガイド)。
たぶんこれが、末娘倍賞が生まれついた境遇や男にだらしのない母親にうんざりし、結婚に失望して独立しようと決心する大きな伏線となるのだろう。成瀬版はそうした伏線は張られていない。夫を喪い、生きるために姉の情夫だった藤田まことを頼る次女浜木綿子も、最後には露骨に姉稲垣美穂子と取っ組み合いの大喧嘩をする。
浜木綿子の亡夫の妾だった宗方奈美は、浜木綿子から手切れ金を渡され、涙を流さんばかりに感謝の言葉を連ねる。成瀬版の中北千枝子は、もっと卑屈でぎすぎすして、それが良かった。望月優子は存在自体が「父親が全て違う四人の子供を産んだ母親」に見え、そうであることを開き直っているふしがある。浦辺粂子はそれを表面に出さなかった。だからラストが活きる。成瀬版の長男丸山修は戦争による負傷(それに精神的ショック)で無気力に陥った男だったが、柳沢真一は甘やかされて育った脳天気な男にすぎず、存在に説得力を欠く。
大庭版では、登場人物それぞれのキャラクターを際だたせすぎて、成瀬版の余白で伝える妙を失っている。上映時間はさほど変わらないはずだが、それゆえに、成瀬版では高峰秀子が独立してからの間借先での出会い(根上淳香川京子兄妹との交遊)はカットされている。クライマックスの母親との言い争いは、家を出てゆくため荷造りをしているときになされるのである。
高峰秀子と三浦光子が、中北千枝子の住む二階屋を訪ねてゆくくだりも、バスに乗って新田橋を渡り、帰りに深川不動に詣でるというコースでなく、電車に乗り荒川(?)の橋を渡り、千住近辺にあるとおぼしき妾宅を訪ね、帰りは浜木綿子亡夫の墓所がある寺に詣でるという違いがある。もとよりこれは製作時期の違いと諦めるほかないが、成瀬版のあのシークエンスが見事なだけに、違いが目立ってしまうのだった。
と、一方的に成瀬版にのみ軍配を上げているかのようだが、実際のところ最初に書いたように大庭版もとても面白く、佳品であった。これは、ストーリーそのものがいいだけでなく、際だたせられたキャラクターにそれぞれの俳優が見事にはまっていることによるのだろう。何事も比較することで初めて気づくことがある。