原作と映画の関係

おとうと

坪内祐三『考える人』*1(新潮社)の影響は案の定強い。吉田健一が気になっていることは先日書いた(→9/29条)。もっとも吉田健一の場合、いつものことだが読み出すまでにある種の強い「決断」が必要で、いまのところ書棚にある文庫本を出してパラパラめくっては元に戻すということを繰り返すにとどまっている。
これとは別に、やはり坪内本の影響で読みたくなったのは幸田文である。こちらはあっさりと障壁を乗り越えることができて、代表長篇である『おとうと』*2新潮文庫)を読み出した。いままで未読だったのである。
たしかこの作品は自分の家族のことをモデルにしているのだよなと思いつつ読んでいくと、戸惑いをおぼえる。父露伴は「慶応三年生まれ」と承知しているから、娘文は明治に育った女、したがってこの時代背景も明治末年頃と勝手に思い込んで読んでいたのである。
ところが明治にしては書かれている風俗が新しいような気がする。あるいは時代を現代(昭和)に持ってきたのかしらんと思ったほどだ。読んでゆくと関東大震災が間に挟まっているから、大正末年のことであるとわかり、ようやく落ち着いたのである。手近にある彼女の年譜(講談社文芸文庫『回転どあ/東京と大阪と』所収)を調べてみれば、たしかに文は大正11年に女学校を卒業し、同15年22歳のとき弟成豊を喪っている。
そもそも冒頭の場面は、向島から隅田川の堤に出て学校に通う姉弟の姿を書いているものだが、固有名詞は出てこない。描写からそうと推測されるだけである。時代といい、空間といい、固定させるべき地点を見いだせず、固定させたい性分のわたしとしては戸惑うほかないのだ。
ところが文庫版解説の篠田一士さんによれば、これこそが本作品の特徴だという。

太い川が隅田川で、この土手が向島の土手でというような詮議はどうでもよろしい。いや、どうでもよろしいというよりも、読者にそういうことを決して許さないような文章の書き方がしてあるのだ。表面上は観察がよく行き届いたリアリスティックな描写をほどこしながら、その内側には、あえて童話的といってもいいほど、現実離れした、なつかしい情緒がなみなみと湛えられているのだ。
この機会に、市川崑監督の代表作としても名高い映画も観ることにした。原作を最後まで読み終え、記憶も新しいうちに観たのである。
何でも監督に「色のない色を」と注文された宮川一夫キャメラマンが、白黒撮影のときの照明で撮影し、発色を現像途中で止めるという技法により色を抑えたという。たしかに鮮やかというのではなく、かといってむろん白黒でもない。セピア色という懐かしさでもないが、昭和35年という時代から大正末期という時代を眺めれば、たしかにこんな色合いがイメージできるかもしれないといった微妙な色合いの映画である。
水木洋子脚本にかかる映画は、原作の流れに忠実で、山となるような挿話もひととおり押さえられ、会話も原作にあるものがそのまま踏襲されている。げんと碧郎の姉弟岸恵子川口浩。女優岸恵子の「姉さん肌」と、男優川口浩の「弟肌」の雰囲気が実にぴったりで、原作にある姉弟の関係が、二人によってさらに輪郭をはっきりさせたという感じ。
森雅之田中絹代の父母も同様に、キャラクターが原作よりも際立っている。とくに田中絹代の継母ぶりが恐ろしいまでに冷たく、迫力ある。井上ひさしさんはこの映画の田中絹代を評して「この映画(「異母兄弟」―引用者注)、『おとうと』と、田中絹代は、後妻役をやらせると、ものすごい表現をする」と述べているが(文春ビジュアル文庫『大アンケートによる日本映画ベスト150』)、まさしくそのとおりだ。リューマチで足が悪く、クリスチャンであって、何かあると神に祈る。そういう様子が滑稽に見えてしまうのはなにゆえだろう。
原作は姉のげんに視点を合わせた客観体(文法的にどう呼ぶのかわからない)で綴られている。姉と弟の関係、家族の関係などはおおよそ姉の目で切りとられる。とりわけ印象的なのは、ところどころに差し挟まれる姉の心象風景の描写である。
そんな思いの上に日が重なって行き二月。川風のいちばん寒い時季だった。土手は長いいやな道だった。去年はまだ碧郎が小学生だったからこの土手もげん一人で通っていたのだが、同じ一人でもことしの一人は侘びしかった。道は凍てついている。桜は裸でごつごつしている。川は黙々と下へ下へと走り下っている。川波の頭は削いだように三角だ。ひゅうっと吹き上げて来る風、その温度が計ってみたい。この冷たさ痛さは何度という温度なのだろう、おそらく温度というものじゃなくて寒度とか氷度とかいうものだろうと悔やしくなる。それほど川からの風は残酷な風だった。(76-77頁)
こうした心象風景は演技では表現できないし、言葉で説明しようとすればくどくなる。映画化しにくいのではないか、そんな心もちで映画に注目していた。原作で繊細なほどに描かれる心象風景の場面も映像になっているわけだが、もちろんこれは説明なしで客観描写のみで場面は推移する。
原作を読んでいるから、「ああ、この場面岸恵子の心の中はこうなのだな」と推測されるので、では原作を読まず虚心にこの場面を観れば、どんなふうに感じるのだろう、どんなふうに伝わるのだろう、原作を読んでから映画を観るか、映画を観てから原作を読むか、はたまた原作のみにとどめるべきか、映画を観るだけでおしまいにするか。
いずれも傑作の誉れ高い作品だけあって、今回ほど原作と映画の関係を考えさせられたことはなかった。「おとうと」に限っては、映画を先に観たほうが愉しめるかもしれない。