冬の日の昏れ方に読む本は

書林逍遙

読書を愛する人間が、目線の先に人生のゴールをとらえるようになったとき、残りの人生において未読作品を読むことより、既読作品のなかでもとくに印象に残った本の再読に向かうようになるのは自然の摂理なのだろうか。
本置き部屋が飽和状態で足の踏み場もなくなり、整理を余儀なくされた。なるべく既読の本で今後まず読む機会は訪れまいと踏んだ本から処分しようとするけれど、「ひょっとしたら…」と色気を出しためらう本ばかりで、これではちっとも減らない。やむなく未読の本からも処分する本を選び出すことになる。
むろん買うときは読もうと思って買うわけだが、買ってしばらく経つうちに買ったことすら忘れ、読む気もなくなってくる。そんな本を積ん読の山の下から発見しては、「これは死ぬまで読まないだろうな」などと理由をつけ処分送りにする。
本を処分するのに「死ぬまで読まないだろう」という判断基準を無意識に持ってきたことに気づき、愕然としたのである。これまでは「死ぬまでに読みたい」「老後に読みたい」という考え方であえて読まず書棚に並べておくことはあったけれど(たとえば『久生十蘭全集』『半七捕物帳』など)、余生を見すえ読める本の限界を推し量るような思考に陥ることがなかったからだ。
人生も折り返し点にさしかかった。ゴールはまだ見えていない。案外折り返してすぐかもしれないし、これまで走ってきた距離と同程度、スタート地点まで戻るあたりかもしれない。先は長いか短いか。いずれにせよ、ゴールを意識するようになったことに間違いはない。読書行為にもその意識が反映していることになるし、よく考えれば本を買うときも「これからの人生で読むことがあるのか」などと大げさに熟考し、これまで簡単に買っていた本も踏みとどまるようになってきたことに気づく。
久世光彦さんの『書林逍遙』*1講談社)は、著者の急逝により途絶えた(?)連載をまとめた本である。これまでに著者が出会った文学作品をふりかえる内容だが、口絵にはなお著者が所蔵していた書物の写真が掲載されている。書物愛には違いないが、稀覯本・初版本を愛するフェティッシュな感覚ではなく、出会い、初めて読んだ時の感動を書物のかたちで愛しているというべきだろうか。
最初の一章では太宰治お伽草紙』を取り上げている。その末尾の段落は本書全体の構想に及んでいる考え方だろう。

冬の日の昏れ方、草を踏んで書林を逍遙すれば、枝々の組み合わさる彼方の空は、折しもの斜陽に染まって鬱金の色である。残照と、やがてやってくる夜との狭間で、私たちはゆくりなくも〈書〉について想う。――書は〈時代〉を映し、かつての数々の〈恥〉を呼び覚ます。特に若い日に読んだ書は厄介だ。一冊一冊に纏い付いている書の記憶は、突然蘇って、いまもこの身を苛んで離れない。(37頁)
久世さんの遺著と呼ぶべき本、『さらば大遺言書』*2(新潮社、→8/12条)や『百間先生 月を踏む』(朝日新聞社、→4/23条)をこれまで読んだが、そのいずれにも死の気配が濃厚に感じられた。だから上の文章を読んだときも、久世さんは人生のゴールをはっきり見すえたうえで、いまいる状況を「冬の日の昏れ方」と表現し、かつてたどった「書林」を恥をもかえりみず逍遙することを選んだのではあるまいか、そんな穿った見方をしてしまう。
気紛れに幼児の目に触れるところに、絵や本を置いてはならない。たとえば食卓のある部屋の壁に、モネの〈睡蓮〉があるか、ムンクの〈叫び〉が飾ってあるかでは、その子の育ちようが違う。無意識のうちに、それらの絵は子供たちに何かを囁きかけ、やがてその声は、彼らの頭の中いっぱいに響き渡るようになるかもしれないのだ。(42頁)
――さんざ言い古された言葉だが、亡んでいくものは、みな美しい。(53頁)
ある小説が、個人的な体験と関わることで、本来の意味や価値より遥かに忘れ難いものになることは、よくあることだ。そこに時代の匂いが加わると、執着は更に増す。それはたとえば、体のどこかに、いつのころからか出来た痣とか、疣みたいな小さな隆起物に似ている。指先が無意識にそこら辺りに遊び、ふと気がつくと意味もなく撫で擦ったりしている。(108頁)
私は男の色気について一つの基準がある。それは作品の中で、女のことを〈女性〉というか、〈女〉と、言わば呼び捨てにするかの違いである。大した差異がなさそうで、これが実は大きな問題なのだ。(119頁)
亡くなってから久世さんの本を読むたび思うのだが、このようにどっしりと質感のともなった印象を読む者に抱かせる、艶のある文章の紡ぎ手を失ったことは、大きな痛恨事と言わざるをえない。