俳優は小道具ではない

21人の僕

池部良さんはエッセイストとしても著名であり、映画を観るようになってからわたしも何冊か文庫本を古本で買い集めたが、読んだことはなかった。たまたま先日山形のブックオフで池部さんの『21人の僕―映画の中の自画像』*1文化出版局)という本を見つけ、購入する気になったのは、105円という売価に加え、その内容に惹かれたゆえだった。
本書は池部さんの出演映画のうち21本(このなかにはシリーズも1本としてまとめられている)が選ばれ、それぞれの作品の思い出が語られている。21本とは以下のものである。

  • 「闘魚」(1941年、東宝) ※デビュー作
  • 「愛よ星と共に」(1947年、新東宝
  • 「破戒」(1948年、松竹)
  • 「わが愛は山の彼方に」(1948年、東宝
  • 青い山脈」(1949年、東宝
  • 「暁の脱走」(1950年、新東宝
  • 「足にさわった女」(1952年、東宝
  • 「朝の波紋」(1952年、新東宝
  • 「現代人」(1952年、松竹)
  • 坊っちゃん」(1953年、東宝
  • 「不滅の熱球」(1955年、東宝
  • 「早春」(1956年、松竹)
  • 「白夫人の妖恋」(1956年、東宝
  • 「雪国」(1957年、東宝
  • 「暗夜行路」(1959年、東宝
  • 「潜水艦イ−57降伏せず」(1959年、東宝
  • 「トイレット部長」(1961年、東宝
  • 「乾いた花」(1964年、松竹)
  • けものみち」(1965年、東宝
  • 「昭和残侠伝シリーズ」(1965-72年、東映
  • 「激動の昭和史・沖縄決戦」(1971年、東宝

「破戒」「青い山脈」「坊っちゃん」「雪国」「暗夜行路」などずらり並ぶ文芸大作の主役として揺るぎないスターであったことがわかる。ここにあげられているうち、豊田四郎監督の「雪国」「暗夜行路」はDVDに収まらない長さだったので、観ぬままハードディスクから消去してしまい、「白夫人の妖恋」も興味をそそられなかったので録画しなかった。このなかで観たことがあるのは、ひと月前に観た「けものみち」のみであり(→7/1条)、これまでの鑑賞歴を振り返っても、池部さんの出演作とはあまり縁がない。
にもかかわらず購入し、読む気になったのは、小津安二郎監督の「早春」と、上述の「けものみち」について書かれた文章に惹かれたためだ。東宝から松竹に貸し出され、初めて小津作品に臨んだ「早春」の顔合わせ・本読みで、いきなり池部さんは監督に釘を刺される。

俺な。この本なんか、三年も温めて、何ヶ月も野田と蓼科に閉じ籠もってさ、書いたんだ。だから、俳優さんの御勝手で、一字でも作り変えられたら、俺は困るんだ。良さんは、東宝育ちだから台詞なんかもいい加減にしている癖がついている、という噂だ。それで東宝は通るかも知れん。寄せ木細工みたいな映画を作るところだからな。けどね。俺は人間様を面白がったり、大事にする映画を作りたいから、印刷された通りにきちんとやっておくれよ。笠さんなんぞは、覚えの悪いひとじゃあるが、お早う、一言でも一週間は稽古してるよ。ほんとだよ。いいかね。(117頁)
それだけでない。「そういう芝居は、東宝の喜劇のひとはうまいね。俺んとこじゃ、そういうのをどさ回りの猿芝居って言って、やらないの」という皮肉も痛烈で、「ひどく傷ついたり、死にたくなったり」したという。絞るだけ絞って追いつめたあげく、最後にはねぎらいの言葉をかけてくれたという話も印象的で、いずれ「早春」を観てからあらためて読み返そうと思う。
けものみち」についての文章は本書の白眉ではあるまいか。出演経験を通して映画における演技者の存在について論じ、さらにそれが社会派ミステリやミステリ全体に対するすぐれた批評にもなっているからだ。
けものみち」での池部さんの役柄は観終えたあと強烈な印象に残る。それなのに、池部さんはこの映画についての思い出がまったくないという。語るべき記憶がないのに、なぜ本書で取り上げるのか。この逆説ゆえに本章が際だっているのだ。記憶がない理由について突き詰めて考えることで、鋭い論点を浮かび上がらせる。
手を抜いたわけでもないはずなのに、記憶にない。松本清張の長大な原作について、切るとすればこの部分しかあるまいという最小限の部分を削って、必要にして十分なものを伝えているという評価を得た作品のはずなのに、それゆえ人間を描くドラマとしては未消化に終わったのではないかという。
人間を描くドラマとしては、それぞれの人物は、その立場にある「ひと」としか掴まえてくれていないから、言ってみれば、俳優不在、不要のドラマということになってしまった。(189頁)
と回想する。「俳優が全くの別人物になり切る必要性を拒否され、さりとて池部良自身を要求されることもなく台詞をしゃべり動かされるところ」、要するに俳優も小道具と同じように取替え可能な映画の一部品として扱われてしまったことが、記憶のない理由であることに突き当たる。
社会の図式を描くことに主眼がおかれ、その図式のなかにいる一人一人の人間のドラマは無視されてしまった。であれば図式を追究するだけの映画にはプロはいらないとまで言い切る強さに、自分が「けものみち」で観た冷酷な池部さんの姿を重ね合わせ、粛然たる気持ちになった。
そもそも社会派推理小説は、パズラーと呼ばれる謎解きミステリとは一線を画して登場したはずで、登場人物は謎解きの道具立てにすぎないパズラーに対し、人間を描く点に特色があったはずだ。しかしながら映画化されるにあたり、社会構図(図式)の提示のみに気を取られると、人間が忘れられてしまう。演技者の体験という現場から、映画の構造に説き及ぶばかりか、文学・芸術一般の問題にも切り込んだ批評として読みごたえがある。
例えば「重役」を演ってくれと言われても、元より重役という人間はいない。某氏が人生のキャリアを積み、いろいろと心を動かして、その組織の中で重役の椅子を射止めた、ということだろうし「大工」という人間はいない。某氏が若い頃から、あちこちに心をぶつけたり痛めたり、楽しんだり、恋もしてみたりした、その人物が職業として大工を選び、技術をマスターした、ということだろう。(190頁)
この文章で単純ながら思い出されるのは、先日観た池部さん主演の「重役の椅子」だ。このなかで池部さんによって演じられた総務部次長は、背後に「人生のキャリアを積み、いろいろと心を動かして」いる様子が透けて見えるようだった。だから心底愉しめる映画だったのだろう。
もちろんわたしは「けものみち」も「重役の椅子」と同じように愉しみ、池部さんの演技を堪能したことは事実である。これはミステリファンとして、松本清張が敷いた図式の面白さを堪能したということに還元されるのだろう。小沢栄太郎伊藤雄之助といったアクの強い脇役の好演によって救われた点もあろうが、よくよく考えれば彼らの役だって取り替え絶対不可能というものでもない。ここにはこのような好色で陰謀好きな老人がいればいいし、あそこにはその威を借りて私腹を肥やす悪徳弁護士を配せばいい。図式に還元すればそうなるのだ。
本書によってまたひとつ映画を味わうときの見方が増えたような気がする。