土曜日は大船喜劇

千客万来」(1962年、松竹大船)
監督中村登/脚本野田高梧柳井隆雄・富田義朗/岩下志麻川津祐介山村聰三宅邦子/鰐淵晴子/佐田啓二岡田茉莉子伊藤雄之助水戸光子桑野みゆき津川雅彦/瑳峨三智子/高千穂ひづる/中村是好沢村貞子桜むつ子/宗方勝巳/牧紀子伴淳三郎大泉滉竹脇無我杉浦直樹/三井弘次

シネマアートン下北沢に足を運んだのは初めてのこと。前々から気になる企画をやっていて、その都度行きたいと思いつつ、自分の住むところから遠いこともあってなかなか足が向かなかった。
自分でも意外だが、下北沢という町を訪れた(下北沢駅で電車を降り、町を歩いた)のはこれまた初めてのことだと思う。いま下北沢は遠いと書いたが、遠いとはいえ千代田線と小田急線は相互乗り入れしているから、乗り換えする必要がなくまっすぐ下北沢に行くことができるのである。
予想していたことではあるが、案の定駅を降りてから目的地に着くまで迷った。地図を持参していたものの、駅から外に出たときに注目した方向が間違っていたらしい。小田急線と井の頭線を座標がわりにして位置関係を把握するのが下北沢歩きの作法かもしれないが、まだその座標もしっかり頭に入っていない。
今回は目的地にたどりつくまでのほんのわずかな部分しか歩いていないのだけれど、とにかく細い路地にびっしり店が建ち並び、人がたくさん歩いていて素晴らしく活気がある町だ。だいたいの空間感覚を身につければ、これほどぶらぶら町歩きが楽しい町はほかにないかもしれない。
さて目指すシネマアートン下北沢は、茶沢通りに面し、下北沢の中心部から若干外れた位置にあった。入り口でチケットを買い求め、狭い階段を二階に昇ってゆく。席数はラピュタ阿佐ヶ谷より少ないようだが、ラピュタが横長であるのに対し縦長になっているゆえか、多少ゆったり広く感じる。
今回観た「千客万来」はまさに松竹大船得意のホームドラマといった風情で、悪人が出てこないほのぼのとした恋愛喜劇だった。5組の夫婦と一組のカップルが出てきて、彼らの間に巻き起こった男女関係にまつわる波風がストーリーを進行させる。
まず商事会社重役の山村聰三宅邦子夫婦。妻の三宅邦子は夫を信頼し、外でどんなに遊んでいようと、夜バーのマダム(瑳峨三智子)に送られて帰ろうと、文句を一切口にしない。次女の鰐淵晴子はそれが不満で、男は汚らしい、お父さんは大嫌いと憤慨する。
二人の長女岩下志麻伊藤雄之助が社長の建設会社に勤めるOL。同僚の川津祐介とお互い意識する仲であるが、交際まで発展していない。伊藤雄之助山村聰と親友同士ということもあり、「社長命令」を盾にとって岩下・川津に結婚を命じ、自ら仲人となる。岩下・川津も、「社長命令」というのをいい契機に結婚に踏み切る。
物語は岩下・川津の新婚夫婦の生活が軸となって展開する。岩下が結婚前や夫婦喧嘩したときに相談に行くのが、山村聰の弟佐田啓二岡田茉莉子の叔父叔母夫婦。この夫婦は大学教授と女流作家(?)のカップルで、一日交替で「当番」となって家事をこなす。当番にあたっている人間に対しては、「珈琲を淹れろ」などと椅子にふんぞりかえって命令できるのである。男女同権社会における理想的夫婦のあり方がこの二人に象徴されているのだろう。
伊藤雄之助は外に若い愛人(高千穂ひづる)をつくるが、別れたいと考えている。高千穂は同じアパートの隣室に住む学生(津川雅彦)に好意を寄せられている。別れ話を自分で切り出せず、親友の山村聰にお願いしたら、その場で山村は盲腸で倒れ、病院に担ぎ込まれてしまう。病院で愛人のことが妻(水戸光子)にばれて家で散々になじられ、くちごたえもできない。
岩下志麻に密かに好意を寄せていたのが天麩羅屋「天銀」の若主人宗方勝巳で、彼には幼なじみでお店の手伝いをしている牧紀子が好意を寄せているのに、岩下の結婚が悔しくて自棄になり、天麩羅の味が落ちてしまう。今では天麩羅屋というと高級なところというイメージだが、この映画の天麩羅屋は、昔の鮨屋と同じでぶらりと入ってカウンター席に座り、食べたいものを内側にいる主人に告げてさっと揚げてもらい、つまんで帰るという気軽な感じだった。たぶん昔はこんな天麩羅屋が町にたくさんあったのだろう。
宗方の母親が沢村貞子牧紀子の両親は中村是好桜むつ子で、彼らは宗方と牧をめあわせようと、気乗りのしない宗方を説得する。このあたりの中村是好の演技が際立つ。中村是好隅田川水上バスの船長で、娘を家から「天銀」(両国近くにあるらしい)まで送ってゆく。水上バスの向こうには総武線の鉄橋が見え、チョコレート色の電車が通過する。
大泉滉は天銀の常連で、いつもながらキザでおかしな雰囲気を発散する。この人の「脇役第三人格」が気になる。伴淳さんは岩下・川津の結婚式で祝辞を述べる偉い人の役でここにしか登場しない。相変わらずのズーズー弁でスピーチし、「高砂」を謡う。
様々なかたちの男女のあり方をコメディタッチで切り取った内容だったが、印象的だったのは山村聰の台詞だ。岩下が夫婦喧嘩で川津に頬をぶたれ、実家に帰ってしまう。川津が岩下の実家にやってきたとき、彼の応対に出たのが岳父にあたる山村聰で、彼の気持ちを理解しつつ、「夫婦喧嘩と硯の墨はすればするほど色が濃くなる」と言い、今日は岩下に会わず帰って明日出直すよう、暖かくアドバイスするのである。
「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」なら聞いたことがあるけれど、「夫婦喧嘩と硯の墨はすればするほど色が濃くなる」とは初耳だった。帰宅後辞書で調べても載っていない。辞書には載らないような俗諺なのか、脚本家野田高梧らの独創なのか。
ほんわかと暖かい家庭ドラマに満足して映画館を出る。この隣に「古書ビビビ」という古本屋があって、店内は人一人すれ違うのがやっとというほどの狭さだけれど、けっこう良質な古本が多く、一冊一冊ビニール袋に丁寧に入れられて並んでいる。山口瞳さんの「男性自身シリーズ」単行本の古いあたりが3ケタというお得な売価でずらりと並んでいたのが印象的だった。
下北沢から住宅街をぬって代々木上原まで歩いて帰途についたが、このあたりの起伏の多さは尋常でない。何度坂を上り下りしただろう。日本人、いや東京の人は、よくこんな起伏の多い土地に隙間なく家をびっしり建てたものだと感心する。遠目から見て起伏があるとはさほど思えないのだが、いざ近づくと見上げるような急坂が当たり前のように何本も台地の上と下を結んでいる。