蠅は絶滅の危機にあるのか

蝉の誤解

以前中平康監督の「殺したのは誰だ」を観たとき、主演菅井一郎の愛人山根寿子がやっている大衆酒場にぶら下がっていた「蠅取紙」や「蠅取器」に注目した(→4/15条)。
その後川本三郎さんの『続々々・映画の昭和雑貨店』*1小学館)を拾い読みしていたら、つとにこの映画における「蠅取紙」の存在に着目されていて恐れ入った。もっとも項目は「落穂拾い」と題し、ひとつのアイテム・事象として立項できなかったモノを補遺的に取り上げたなかに言及されているから、映画タイトルをもとに索引を総ざらいしないかぎり突き当たらないわけである。
さて川本さんは、「殺したのは誰だ」に登場する「蠅取器」を見て、「ストーリー展開などそっちのけで、〝懐かしい! あのハエ取り器、うちにもあった〟と懐旧の思いにとらわれた」という。
これとは別に「蠅取紙」については、千葉泰樹監督の「山の彼方に」を引きあいに出し、「昭和三十年代までは、家庭でも使われていたが、姿を消してから久しい。だいいち、昔に比べればハエそのものがいなくなった」と書いている。
たしかに蠅を目にすることはあまりなくなり、「蠅取器」も「蠅取紙」も、さらに「蠅叩き」もお役御免の世の中になっているようだ。わたし自身はこのことについてあまり意識的ではなかったけれども、佐野洋さんの連作短篇集『蝉の誤解』*2光文社文庫)に収められた短篇「蠅の美学」を読んだら、いよいよ蠅が“絶滅の危機”に瀕しているらしいことを知り、上記のエピソードを思い出したのだった。
「蠅の美学」の主人公は女性の小学校教師。ある日、離れて住んでいる兄から風変わりな届け物を受け取る。不審に思いながら封を開けると、中から二本の牛乳瓶が出てきて、瓶の中にはそれぞれ生きた蠅が閉じこめられていた。なぜ兄がこんな贈り物をしたのかと言えば、小学校の授業中、子供たちに「蠅叩き」を知っている人が一人もおらず、しかも蠅という虫すら見たことがなく知らなかったという話を妹から聞き、わざわざ捕まえて送ってくれたのである。
まあこれは極端な例かもしれない。物語のなかでは、この小学校の学区は近年住宅地として開発された場所で、その住民たちの意識が高く、ゴミ出しも整然と行なわれているうえ、下水道が完備され、例外なく洋式水洗便所が設けられているからという事情もぬかりなく説明されている。
しかしながら川本さんの本の話もあるから、蠅を直接見る機会が少なくなってきたことには変わりあるまい。そこで小学生の長男に「蠅を知ってるか」と何気なく訊ねたところ、当たり前のような顔をして首を縦に振った。よく考えてみればまだ実家には蠅叩きがあって、帰省したときなどそれをテニスラケットのように振り回して遊んでいたような気がする。
「蠅の美学」の主人公が勤める先生の間で、この話題から「こうした状態が進むと、やがて日本列島から蠅が姿を消すのではないか。つまり、蠅はすでに絶滅昆虫の仲間に入っているのかもしれない」という話に進展したとある。近い将来本当に蠅が「絶滅昆虫」になったとき、日本ではいつ頃から見られなくなってきたのかということを明らかにするための文献にこの小説が使われ、「21世紀の初頭にはすでに危機的状況になっていた」なんて論じられるのかもしれない。
ところで『蝉の誤解』は、表題作やこの「蠅の美学」のほか、「蟻のおしゃべり」「カマキリの本音」「ミドリシジミの知恵」「飼われた蜻蛉」「蓑虫の計算」「玉虫の意志」「蚊の証言」と、昆虫・虫がタイトルに織り込まれ、それらの虫が小道具として使われたり、虫の生態が物語の筋に巧みに組み込まれた、いつもながら巧緻でお洒落なミステリ連作である。
「蠅の美学」などは虫を小道具に使った代表的作品だし、そのほか「玉虫の意志」もこれに類するものとして素晴らしいできばえである。また、「カマキリの本音」「ミドリシジミの知恵」などは、虫の生態を人間関係に移し替えそれをミステリに仕立てた絶品で、短篇の魔術師佐野洋の面目躍如といえる作品だ。
佐野さんの連作短篇集を読んでいると、「北東西南推理館」シリーズ(→2003/9/11条)の印象が強烈ゆえか、この短篇を着想するもとになった事実はこれだろうなどと、あれこれ裏を読んでしまう悪い癖が出てきてしまう。たとえば「飼われた蜻蛉」には、ゴルフ場にあるクリークに金網が被せられ、そのなかに閉じこめられた蜻蛉が物語の重要なテーマとなっている。これなど、『四千文字ゴルフクラブ』(文春文庫)のような連作短篇集もあるゴルフ好きの佐野さんが、プレー中に実際そうした蜻蛉を目にしたことが源になっているのではないかと勝手に推測する。
ミステリを読む愉しみだけでなく、こんなふうに創作過程を推理する愉しみがあるから、佐野洋ミステリが大好きなのである。