人生の楽しみ見つけたり

天才監督 木下惠介

CSの有料チャンネル“衛星劇場”では、「木下惠介の全貌」という特集を組み、毎月作品を放映しており、来月12月で終わる。その予告を観ていたら、来月は映画作品でなく、木下監督がテレビ出演したインタビュー番組やドキュメンタリーを流すらしい。高峰秀子もゲスト出演した番組(NHKの『この人「木下惠介ショー」』か)の予告に映った、小柄な身体に大きな頭で童顔(当時72歳)の木下監督の姿が目に焼き付いて離れなくなった。
木下恵介という映画監督の姿をそれまで知らなかったゆえ、「へえ、この人が木下恵介なのか」というイメージとのズレ、異貌と言うべきか、変な言葉で言えば「宇宙人」のような感じに、意外の念を禁じ得なかったためだ。以来木下恵介を気にするようになった。
偶然、今月末から来月にかけ、NHK-BS2にて「名匠 木下恵介の世界」という特集放映が行なわれることを知った。この機会に木下作品を観るのも悪くない。ちょうど先日、長部日出雄さんの評伝『天才監督 木下惠介*1(新潮社)を買ったばかり。予習がわりに読むことにした。読後まず感じたことを先取りして言えば、「早く木下映画を観たい!」のひと言である。
わたしはこれまで木下作品は「笛吹川」「二十四の瞳」2作品しか観ていない。ヒューマニスティックで端正な、「泣かせる映画」を作る監督という大雑把な印象だったが、本書を読んで見方が一変した。芸術家にして商人(商売上手という意味)、反骨精神に富み、終生親への感謝を忘れなかった「愛」の人。
才気煥発でつねに実験的挑戦的な精神を忘れず、既成の技法の一歩先を歩もうとする。思想的・経済的な制約を上から与えられたときには、それを逆手にとって、窮屈な制約ゆえにとりうる方法を試みる。ある作品が評判になったときは、次の作品では必ずその逆を行くような意外性のある作品をつくる。
笑いも涙も自由自在、ホームランを狙って打席に入り必ずホームランを打てるバッターとして会社(松竹)から重宝されていることを自らわきまえているので、会社の言うことは反抗せずよく聞き、ヒット作品を撮って会社に貢献し、会社の機嫌がいいときに、かねがね考えていた実験的作品を撮ろうと画策する。
長部さんは週刊誌の映画記者歴があり、映画評論にもたずさわっていたこともあって、映画を分析する表現が細かく、わたしにとってははじめて出くわすような新鮮な指摘に満ちていた。たとえば長部さんは、映画を文章になぞらえ、撮影・カットの技法などを「文体」という比喩で表現する。デビュー作「花咲く港」について、こう論じている。

カットが切り替わるごとに、つづくアングルが予想を裏切って、それまでの日本映画では観たことのない、新鮮な構図と明快な画調の画面が出現する。
(…)ロングショット、フルサイズ、バストショット、クローズアップ、パンニング、移動撮影……等が、つねに観る者の意表を突いて多彩に織り混ぜられるので、極端にいえば内容に関係なく、その変化のリズムに身を任せているだけで、一種の快感が体内に生じてくる。
 これが映画という表現手段に特有の、他の分野では味わうことのできない魅力の核心をなす要素なのだ。
 小説家になぞらえていえば、文章が抜群に上手いのである。木下映画は、最初のシークエンスからすでに、他の誰にも似ていない独自の文体をそなえていた。(130頁)
浜松の裕福な商家に生まれ、愛情を持って両親に育てられた生い立ちから、映画の道を志して苦労しながら松竹に入社、島津保次郎に助監督として抜擢されその下で働きながら巨匠へとステップアップしていく様、映画一作一作ごとにその当時の社会との関係や、木下監督のフィルモグラフィのなかでの意義付けを怠らず行ない、それぞれの作品の技法的特徴に言い及び、晩年へと至る。評伝として完璧といってよい。
黒衣に徹することで評価されるべき評伝があるいっぽうで、著者自らの人生とかかわらせながら、それを評伝のなかに重ね合わせることで効果を出すものもある。本書も場合少なからず後者の要素がある。
長部さんの生家は青森でカフェーを営んでいたという。住み込みで働いていた多くの女給に囲まれながら日出雄少年は育った。彼は休みの日になるたび、映画好きの女給さんに連れられ町中の映画館に映画を観に行き、そこで外国映画と出会い、木下作品と出会ったのだという。そのとき観た「わが恋せし乙女」の思い出で感傷にひたる。
また、高峰秀子の大ファンだったものの敗戦直前にフィリピンで戦死した兄が観ることの叶わなかった日本初の天然色映画「カルメン故郷に帰る」における、高峰演じるリリー・カルメンの姿に思いを馳せながら、この映画の歴史的意義や高峰の名演を語る湿っぽさ。評伝には不要かもしれないこんな叙述が、本書の評伝としての面白さを逆に引き立たせている。
よくよく考えてみれば、わたしが木下作品に抱いていたイメージは、去年フィルムセンターで観た「笛吹川」(→2004/11/10条)で払拭されていたはずなのだった*2。本書によってわたしの頭のなかには、木下惠介という映画監督の「前衛性」が完全にインプットされた。長部さんは「惜春鳥」を論じたくだりで、「未見の方には、まだそれだけ人生の楽しみが残されているというわけである」と書いている。これは木下作品全般をまだ観ていないわたしのような人間に対するメッセージとしても敷衍できるだろう。わたしにはまだまだ人生の楽しみがたくさん残されている!

*1:ISBN:410337408X

*2:この「笛吹川」と原作者が同じ深沢七郎の「楢山節考」は、著作権者との関係でこれまで再上映・ソフト化などがなされなかったという。義太夫など歌舞伎の技法が大胆に取り入れられているという「楢山節考」を観てみたい。