平々凡々な映画の意義

「幸福を配達する娘」(1955年、大映
監督木村恵吾/原作源氏鶏太/脚本井手俊郎若尾文子/菅井一郎/北林谷栄井上大助千秋実/霧立のぼる/船越英二目黒幸子/清川玉枝/丸山修/小畑よし子/浦辺粂子菅原謙二高松英郎/見明凡太朗

桑野家の菅井と北林の老夫婦には、四男三女の子供がいる。長男千秋実は資産家令嬢と結婚したがうまくいかず、千秋は外に別の女をつくる。次男は戦死、三男船越英二は団地で妻と二人暮らし。妻はミシンを踏んで内職をして生計を立てる。四男井上大助は末っ子でまだ学生。
長女(兄弟のなかでも一番上)は夫が北海道で働いているので当地に暮らし、東京には稀にしか帰ってこれない。ここにも子供が五、六人いる(数を確認できず)。次女は電気屋を営む夫(丸山修)と暮らし、子供が一人。夫は商売にあまり熱心でなく、姑の浦辺粂子が突然訪ねてやってきたりする。三女が若尾文子。独身OLである。
父の菅井が定年を迎えたため、両親の生活を支えるため若尾は兄弟たちに相応の生活費提供を提案して受け入れられるが、いざ集金のため兄弟の家を訪ねてもお金の集まり具合がはかばかしくない。せっかく集めても、弟がこっそり拝借してカメラを買ってしまう。
そこに北海道の長女の夫の同僚が東京に転勤するというので、アパートが見つかるまで実家に間借りを頼みこんでくる。そうしてやってくるのが、ハンサムで頼りがいのありそうな菅原謙二。彼に若尾は少しずつ惹かれてゆく。
会社で若尾に好意を寄せている同僚に高松英郎。若い頃の高松さんもハンサムだったのだなあ。その若尾の会社と菅原の会社が野球の対抗戦をやることになった。高松がピッチャーで菅原との対決。思わず若尾は菅原のほうを応援してしまう。
この菅原の登場が桑野家の人びとに変化をもたらすことになる。菅井一郎のお父さんは、妻の北林谷栄から、絹ごしでない豆腐(木綿だろう)を買ってきてと言われて絹ごしを買ってきたり、隣から小鉢を借りてきてと言われ丼を借りてきたりして叱られるなど、とぼけた味わいがあって面白い。しまいにはハイキングのときに若尾・菅原と三人で撮った写真の自分の部分だけ娘にハサミでちょん切られてしまうという悲しさ。
大家族すぎて食器が足りず、隣から借りてくるというのも時代を感じさせる。船越の団地に若尾が来たときには、アパートの隣人が船越の家に醤油を借りにきたりする。いまでは見られなくなった光景。
ストーリーに大きな波瀾があるわけでもなく、結末もほのぼのハッピーエンドという雰囲気で終わる、何てことのない平凡な映画である。こんな映画を人は「凡作」と言うのかもしれないが、平々凡々たる映画が量産され、許容されていた昭和30年代という時代の大らかさがうらやましい。
何てことのない当時の人びと(小市民と呼ぶべきか)の日常の一齣を映画で観ることができるということは、実はとても貴重なことなのではないか。「幸福を配達する娘」を観ながらそんなことを考えた。夜一人でビールを飲みながら鑑賞するのは、「切腹」のような緊迫感のある名作である必要はない。むしろそういう映画を観ているとかえって神経が高ぶって眠れなくなる。かえってこんな平々凡々たる映画こそ、ふさわしい。