秋たつや川瀬にまじる風の音

「秋立ちぬ」(1960年、東宝
監督成瀬巳喜男/脚本笠原良三/大沢健三郎/一木双葉/乙羽信子夏木陽介原知佐子加東大介河津清三郎藤原釜足賀原夏子菅井きん藤間紫

豊田四郎監督作品の予告篇をこれでもかと観せられ、鑑賞欲が掻きたてられた反面で、文豪の作品を映画化した文芸巨篇とは対極にあるような、あっさりと淡い小品を観たくなったのは自然な成り行きかもしれない。
晩鮭亭さんの「山の音」(わたしは未見)のご感想(id:vanjacketei:20050904)を拝読したことや、今週からNHK-BSで始まった成瀬特集の影響もそれに加わり、成瀬映画を観ようと思い立った。
このところ、家族が寝静まった夜ふけ、ビールを飲みながら一人しみじみと映画を観ている。ふだん以上に眼を酷使する仕事がつづき、読書をするにもすぐ眠くなってしまうのだけれど、映画ならかろうじて持ちこたえられる。見終える頃にはたいてい日付が変わり、眼がショボショボしてどうしようもなくなっているのだが、ビールによる軽い酔い心地と、いい映画を観終えた満足感が重なって、気分よく床につくことができるのである。
さて選んだのは成瀬監督の「秋立ちぬ」。父を結核で亡くし、信州上田から、築地のあたりで八百屋を営む伯父(藤原釜足)一家を頼りに母(乙羽信子)と上京した小学六年生の少年(大沢健三郎)が主人公。
母は義姉(賀原夏子)の斡旋で新富町辺にある旅館に住み込み女中として働きに出る。一人伯父の家で起き伏しする少年の心をおそう寂しさ。偶然旅館の小学四年生の娘(一木双葉)と仲良くなり、二人で松坂屋の屋上に上って海を見たり、もっと広い海を見ようと、知り合いのタクシー運転手に頼んで晴海まで連れて行ってもらったりする。
この旅館は女将(藤間紫)が大阪の実業家(河津清三郎)の二号で、東京の別宅というおもむき。娘はよくわからないながら、お父さんの「本宅」が大阪にあることを知っている。あるとき「本宅」の子供、つまり異母兄妹にあたる二人が父と一緒に銀座見物に上京するが、異母兄妹との関係をすぐには受け入れられない女の子。また、二号さんの生んだ腹違いの妹を冷たいまなざしで眺める大阪の子どもたち。子供の複雑な心理が、画面を通して伝わってきて、観ているほうも哀愁を感じてしまう。
きっと川本三郎さんはこの作品も好きだろうな。その証拠に、『銀幕の東京』*1中公新書)では「東京の映画」の一本として選ばれ、『映画の昭和雑貨店』シリーズ(小学館)5冊すべてにこの作品が登場する*2。「昭和雑貨店」的アイテムに満ちていることにもなる。
主人公の少年少女二人が松坂屋屋上から眺める海は、浜離宮の向こうに広がる。「ちっとも青くねえじゃん」と期待はずれの言を漏らす。いまや浜離宮すら汐留の高層ビル群に遮られ、見えなくなっているだろう。
この映画の舞台は、ちょうど先の週末わたしが歩いた銀座の東から築地にかけての地域と重なる。まだ築地川があった。少年は川のどぶ臭いにおいを嗅いだらご飯が食べられなくなると文句を言うのが笑える。この信州育ちの少年、語尾に「じゃん」「ずら」を付けて話し、東京の子供たちからからかわれる。「じゃん」は横浜言葉という印象があるが、信州にも縁があるのか。また「ずら」といったら静岡だと思っていたが、これまた信州もなのか。
優しい母親だが、旅館の常連である真珠の仲買人(加東大介)と「でき」てしまい、少年を残して駆け落ちする。憤慨する伯父夫婦。そこに少年が晴海や豊洲・東雲の埋め立て地に出かけ、捜索騒動を巻き起こしたからたまらない。警察に保護されて帰ってきた少年を、伯父はポカリと殴る。八百屋という客商売としての体面を気にするのだ。
救いなのは気のいい従兄の夏木陽介。カブト虫を探しにバイクに乗せてもらい多摩川に連れて行ってもらったりするが、友人らが江ノ島に行こうと誘いにくれば、少年との約束を反故にして出かけてしまう。
夏休みの宿題でカブト虫の標本が欲しいと少女からねだられ、ようやく一匹見つけた(この見つけた経緯も面白い)にもかかわらず、その少女は二学期を前に引っ越してしまっていた。旦那が女将に、銀座の旅館を売ってアパート経営を勧めたからだ。
少女とはもう会えない。寂しいなかに楽しさがあったひと夏の思い出は、秋とともに消え去ってゆく。救いがないと言えばない映画なのだが、少年の心のなかに吹き通る秋風が涼やかな哀感をもたらす、至極あっさりとした佳品だった。
タイトルは季題に由来しているのだろうなと、久保田万太郎に何か気のきいた句がないかどうか探したけれど、意外に万太郎は「秋立つ」という季題の句を詠んでいない。かわりに角川書店編『合本俳句歳時記 新版』*3から、表題にある飯田蛇笏の句を見つけてきた。

*1:ISBN:4121014774

*2:項目は「夏の着こなし」「銭湯」「デパート」「子どもの遊び」「物干台」「商店街」「お妾さん」「川遊び」「アベックでランデブー」の八つ。

*3:ISBN:4048710036