「雑文史」をたどって

読書巷談 縦横無尽

谷沢永一さんと向井敏さんによる書評対談『読書巷談 縦横無尽』*1講談社文庫)を読み終えた。
本書はいわゆる新刊書評ではない。そもそも「書評」と呼ぶことが妥当かどうか異論があるかもしれない。要は名うての目ききである二人が設定されたテーマに関する面白い本を数冊取り上げ、その本の面白さ、食い足りなさなどそれこそ「縦横無尽」に語り尽くすといった内容の本である。
設定されたテーマを章タイトルの羅列で紹介すれば、「ウソかマコトか、文章の芸」「警句のアンソロジー」「歌ごよみ」「風俗誌としてのミステリ」「スパイ小説の仕組み」「SFの限界」「人間学入門としての小説」「自伝の魅力」「思想と人間」「生物社会と人間社会」「政治の生理」「同時代史の試み」「歴史を見る眼」「ニュー・ジャーナリズムと文学」「楽しみとしての読書」以上15本。
前半はエンタテインメント中心、後半(「思想と人間」)以降は人文科学・社会科学中心といった分類ができる。本当はそれではいけないのだろうが、やはり前半のほうが断然面白いし、取り上げられた本のうち読みたくなってくる本もそちらに多い。
これまでわたしは、夕刊フジ連載エッセイに対し、短章好きといった個人的嗜好からしか接しようとしてこなかった。ところが本書冒頭の一章「ウソかマコトか、文章の芸」中に丸谷才一さんの夕刊フジ連載エッセイ『男のポケット』が取り上げられ、このたぐいの文章が大きな文学史の流れに位置づけられているのを読んで、夕刊フジ連載物の流れを把握するための重要な視座を獲得できたと喜んでいる。
谷沢さんは、もともと日本の文壇には「雑文と呼ばれる文学的エッセイ」という「軽く見てはいけない特別のジャンル」があることを指摘し、その極めつけが佐藤春夫『退屈読本』だとする。戦後伊藤整が『退屈読本』を意識しながら伝統を復活し幅を広げたおかげで、「雑文に冴えを見せてこそ文士は一人前という、めいわくな常識が確立した」とし、佐藤・伊藤をつなぐ時期に雑文に賭けた文士として中野重治をあげ、大正以来の「雑文史」を展望している。丸谷さんのエッセイはその末流に位置するわけである。

そういう伝統を受け継いで、さらにその上にみごとなソフィスティケーションを加えて、文章の芸を見せることに徹したのが、この『男のポケット』でしょう。何かの目的があってじゃなく、何を教わるためでもなく、ただもう楽しい書物を読んだという充足感を残してくれる。こういうしゃれたエッセイが出てきたということは、文運隆盛まことに慶賀すべきだと思う。(12頁)
と、手ばなしでの褒めようである。
ここで夕刊フジ本は丸谷さんの『男のポケット』だけが取り上げられているけれども、敷衍して“雑文史における「夕刊フジ連載エッセイ」”というテーマを措定すれば、夕刊フジは雑文を生み出す媒体としてかなり重要な場だったと言うことができるのではないか。
梶山季之から丸谷さんまでの執筆陣を並べると、遠藤周作山口瞳笹沢左保筒井康隆柴田錬三郎吉行淳之介檀一雄藤原審爾井上ひさしという豪華なラインナップである。有名小説家の余技としてではなく「雑文」というジャンルのなかでこれらのエッセイを考えればどうなるか。逆に言えば、夕刊フジ連載の流れを追うことが、「雑文史」の一面を追うことにもつながるのではないか。そんな雑念が浮かんでは消える。
もっと触れたい本があるが、煩雑になるので詳しく述べない。かいつまんであげれば、安東次男『花づとめ』の評を読み、この本が講談社文芸文庫に入った直後入手した中公文庫版を思い出し読みたくなり、また、ちくま学芸文庫に入った『完本風狂始末―芭蕉連句評釈』を積ん読山から掘り起こし、山の一番上に置きなおした。和田誠さんの『日曜日は歌謡日』が取り上げられており、買ったばかりだったので嬉しかった。
谷沢さんが柴田宵曲著作集を出す出版社がないものかと書いているのを見て、小澤書店の文集を思い出し、いまや『妖異博物館』正・続が文庫で読めるようになったことをことほいだ。そしてひょっとしたらこの対談から着想された出版企画が多いのではないかと想像した。やっぱり星新一が読みたくなり、さらにサマセット・モームも読みたくなった。
最後に、あいかわらず向井さんの本を評するときの語り口(文体)は香気ただようもので、玩味するという言葉にふさわしい読み方をせずにはいられなくなる。