赤瀬川原平の埋もれた名作

新解さんの謎

この春のテレビ番組改編期に、局は忘れたがタモリが出演した情報特番があって、このなかで三省堂の『新明解国語辞典』が取り上げられていた。いまさら、という気がしないでもないが、やはり語釈が面白い。
このとき初めて知ったのは、妻が『新明解』ユーザーだったこと。学生時代に使っていた辞書をまだ手放さず持っていると、棚をがさごそと探し見つけ出してきた。第三版だった。『新明解』は第三版以降、評判の面白さが加わり、第四版がもっともはじけているという。
妻が持っていた第三版を前に、テレビが指摘する箇所をめくりながら、「おおっ、本当に書かれている」と喜びながらしばし『新明解』にはまった。
そういえば、と、今度わたしが取り出してきたのは、言わずと知れた赤瀬川原平さんの新解さんの謎*1(文春文庫)である。たしかこの本が『新明解』(以下「新解さん」とする)の面白さを最初に指摘したのではなかったか。
本文庫版の帯に「「老人力」とならぶ赤瀬川原平の大発見」とあるから、記憶は間違っていないのだろう。前半部にあたる「新解さんの謎」では、赤瀬川さん独特の対話によるライブ感あふれるスタイルで、「新解さん」についての「大発見」がルポされている。
このスタイルは、たとえばわたしが偏愛してやまない名著『外骨という人がいた!』*2ちくま文庫)や、世評高いという言葉すら陳腐な『超芸術トマソン*3(同前)に通じるもので、赤瀬川スタイルの真骨頂なのではないかと思っている。
さて本書は発売時(1999年)買い、記録を見ると購入後まもなく読んでいる*4。それなのに再読しようと思ったのは、後半の第二部にあたる「紙がみの消息」の存在ゆえだった。初読のおりにはまったく気にしていなかった。
そのことは後述するとして、まずは「新解さんの謎」から。スタイルの面白さや、「売文」の語釈が「(つまらない)小説・評論などを書き、その原稿料・印税によって生活すること」だったり、「読書」の語釈が「〔研究調査のためや興味本位ではなく〕教養のために書物を読むこと。〔寝ころがって読んだり、雑誌・週刊誌を読むことは、本来の読書には含まれない〕」とあるのに大笑いするいっぽうで、「凡人」が「自らを高める努力を怠ったり功名心を持ち合わせなかったりして、他に対する影響力が皆無のまま一生を終える人」とあるのが心にぐさり突きささったり、複雑な気持ちになりつつ愉しめた。
ただ、赤瀬川さんや「新解さん」を彼に紹介した「SM嬢」が、「新解さん」の用例に突っ込んでいるあたりは、ちょっと首をひねってしまう。これらの用例は典拠こそ書かれていないが、小説などから採られているのではないのか。名前などの固有名詞が突然出てくるのはそのせいだろう。でも、こんなことを言ったら身も蓋もないのかもしれない。それを承知で楽しんでいるのかも知れないからだ。
それはともかく、話は後半の「紙がみの消息」に移る。あらためて本書をめくって、この文章が収められていることに驚いたのだ。この文章は、もともと『諸君!』連載の文章の後半にあたり、前半が『紙がみの横顔』*5文藝春秋)として先にまとめられている。
わたしは以前この『紙がみの横顔』を面白く読んでいて(旧読前読後2002/2/18条)、時間が経つにつれ、あの本は赤瀬川さんの本のなかでもトップランクに位置する面白さなのではないかと考えるようになっていた。
にもかかわらず、初読のおり「紙がみの消息」の前をただ通り過ぎただけだったのは迂闊もはなはだしいのだが、それを棚に上げて言わせてもらえば、『紙がみの横顔』はいまだに文庫に入らず、いっぽう後半部の「紙がみの消息」は「新解さん」の陰に隠れ、前半部と切り離されたかっこうで文庫に収められてしまっているという中途半端さは遺憾である。ちくま文庫あたりから『完本 紙がみの横顔』といったかたちで出してくれないものか。
『紙がみの横顔』は足立区立図書館リサイクル本として、格安で入手した。一度処分しようとしたことがあるけれど、そうした来歴ゆえに図書館のラベルが残っており、買い取りを断られた。いまも手もとにある。いまでは売れなくて良かったとすら思う。
様々な紙媒体を切り口に、ともすれば赤瀬川さんらしくない文明批評、時評的発言が展開されるこのシリーズ、こちらは赤瀬川さんらしい意表をついた論理で鋭く社会現象を切り裂く文章を目にして、ぼんやりした頭から靄が取り払われたような気分になる。
紙媒体といってもいろいろで、チラシ、紙幣、コピー用紙、写真の紙焼き、おみくじ、手紙、紙吹雪、投票用紙、名刺、手帖、ペーパータオル、ティッシュといった実体のあるものから、余白といった概念まで、「紙」がこれほどまでに現代社会を考える糸口になるとは、という驚きの連続である。
赤瀬川さんは人生を一冊の本のアナロジーでとらえる。活字がつまったページが終わり、最後に二、三枚空白のページがある。人生もそんな余白があれば好ましい。でも日本人には「余白なしの人生」の人がけっこういる。

過労死の場合は突然だから、奥付がない。値段とか発行日がわからなかったりする。あとがきもない。本文も結論の手前でばっさり切られたまま綴じてある。人生の折りの関係でそうなったのだ。それも凄絶ではあるけれど、やはりこの歳になると、あとがきと奥付ぐらいは欲しいと思う。そのあとの余白が出るかどうかは編集の都合でわからない。(171-72頁)
歳をとって諸方に義理が生じ礼儀の必要性を感じることが多くなると、余白だらけで無駄が多い感じのする和紙の便箋の有難味がわかってくるという。
そんなわけで和紙は便利だ。あらかじめ礼儀が漉き込んであり、人柄の柔らかさと懐の広さも漉き込まれてあるので便利なのだ。(212頁)
ため息の出るような名言である。ああ、やはり「完本」が欲しい。
【追記】
これを書いたあと、kuzanさんから、「新解さん」の面白さを最初に指摘したのは赤瀬川さんではないはずというご指摘を頂戴しました(id:kuzan:20050622)。kuzanさんのご指摘を読むとまったくそのとおりであり、「最初に指摘」というのは誤解であったことを訂正いたします。「最初に大衆に広めた」と言い換えるべきでしょうか。kuzanさんのご教示に感謝申し上げます。

*1:ISBN:4167225026

*2:ISBN:4480025723

*3:ISBN:4480021892

*4:栞や挿入物がすべて前見返しにまとめて挟まれてあったから、読んだような気はしたのだ。

*5:ISBN:4163466703