坪内さんにがんじがらめ

古本的

昨日坪内祐三さんの新著『古本的』*1毎日新聞社)を購い、帰宅後そのまま読み始めたら止まらなくなって、即日読み終えてしまった。思わず夜ふかししてしまったのだけれど、朝早く起きることができたので、あの興奮を忘れないうちにと、異例ながら朝のうちに感想をまとめておくことにした。
買った本を即日読み終えるなんて、最近の経験をふりかえってみても、坪内さんの本くらいしか思いだせない。たとえば『三茶日記』(本の雑誌社、旧読前読後2001/10/25条)や『雑読系』(晶文社、同2003/2/24条)が浮かんでくるが、これらの感想を見てみると、「すぐ読み終えた」とはあっても、即日とは書いていない。どうだったろうか。
本書は『毎日グラフ・アミューズ』連載の「古本的」と、ミステリ専門誌『ジャーロ』連載の「ミステリは嫌いだが古本は好きだからミステリも読んでみた」(原題「ミステリ嫌いのミステリ読書録」)の二部構成となっている。
前者は1998年〜2001年、後者は2000年〜2003年の文章で、けっこう前に書かれた文章である。それまでの著書で触れられている内容と微妙に重複しているところがあって、それもまた坪内ファンには面白い。わたしはいずれの連載も連載時に読んだことはなく、後者の連載がされていることは知っていたが、前者はまったく知らなかった。
繰り返しになるが、本書を昨日買って昨日読んだ。連載時に読んだことがないとか、なぜこんなことを書くかというと、最近のわたしの行動とぴたり平仄の合う文章に出くわし、とても驚いたからだった。
第二部中の「ミステリ嫌いの私が堪能した都筑道夫」は2001年3月に発表された。ここではこれまで読んだ都筑作品が列挙されており、それらがことごとく昨年からわたしも愛読してきた都筑作品だったから、たまらない。
『昨日のツヅキです』(新潮文庫、→2004/5/29条)、『目と耳と舌の冒険』(晶文社、→2/18条)、『東京夢幻図絵』(中公文庫、→2004/12/13条)、『猫の舌に釘をうて』(光文社文庫、→4/30条)などなど。しかもこの文章のメインは、いま読んでいる『推理作家の出来るまで』(フリースタイル)なのだ。何だか自分でも、これを読んだ影響で上記の都筑作品を読み始めたような錯覚にとらわれてしまうが、実は無関係で、坪内さんの都筑作品への入口と自分のそれが似ているのに興奮した。
興奮ついでに、ここでは遠藤書店まで登場している。坪内さんも植草甚一さんに言及しているが、坪内さんご本人もよく通っていた店だったとは。たぶんこれまでのエッセイでも書かれていたに違いないが、印象に残らなかったのだろう。しかも都筑さんまで常連だったという裏話まで紹介されている。
さらにこの一つ前の「田中小実昌が「主語なし」で訳した本」では、田中小実昌さんが訳した『誘拐部隊』を求めるべく経堂におもむき、無事大河堂書店で同書を入手するまでの経緯が坪内さんならではの臨場感で記録されている。大河堂と言えば、この間の週末わたしも初めて訪れ、都筑道夫さんの文庫本2冊を買い求めたお店ではないか。
まるで本書を読んでたまらず経堂の古本屋に行ってきたような感じだが、実際はこれも本書と無関係で、まったくの偶然にすぎないから驚いたのだった。もっとも、都筑さんにせよ経堂にせよ、偶然とはいえ、かつて坪内さんの文章を読んで「いずれは」と深層で思っていたに違いなく、そんな坪内さんが敷いた「透明なレール」の上を走ったにすぎないという言い方もできそうだ。
たぶん本書を読んだ人はそれぞれ引っかかった本や人物があるに違いなく、100人読めば100本の琴線が本書に仕掛けられていると言えるのだろう。
わたしの場合、インフルエンザに罹患するきっかけとなったブックオフで入手した木村毅『大衆文学十六講』(中公文庫)が登場する「驚き喜んだ木村毅の一冊」や、断簡零墨趣味をいたくくすぐられた太宰治の『もの思ふ葦』(近代文庫)、そしてhigonosukeさん(id:higonosuke)もあげておられる、『横溝正史自伝的随筆集』(角川書店)あたりが「琴線」だった。
とりわけ『横溝正史自伝的随筆集』は刊行時に購入し、未読のまま何度か処分本候補に入りながら、その都度手もとに残してきた本だった。…はずだが、かつて本棚の同書があった場所に見あたらない。処分してしまったのではないかと冷や汗が流れる。いずれ積ん読の山を探索し、見つかれば目につく場所に置きなおさねばなるまいと思う。
読みながら興奮して手に汗握り、本書の白いカバーを手垢で汚してしまう恐れが生じたので、カバーを外して読んでいた。カバーを外してみると、赤っぽい角背の造本が、何だかあと10年20年もして古びれば、そのまま本書のなかで言及されている古本たちの仲間入りができるのではないかというたたずまいで、ピカピカの新刊を読みながら古本を読んでいるような錯覚を感じた。
印刷は精興社だが、書体はいつもの「精興社体」ではなく、同社のカジュアルなほうのフォント(?)が使われている(2004/9/21条参照)。引用部分の正字に安定感があったのは、精興社だからかと納得した。