人と酒に愛された男の酒

酒を愛する男の酒

亡くなったことをきっかけに、故人の著書を読み出すというのは、大声で自慢できるような話ではない。山本夏彦さんといい、先日読んだ阪田寛夫さんといい、わたしにはそういうきっかけで読むようになるということが少なくなく、自分でも「いかんなあ」と反省している。
先般矢口純さんの訃報を聞いた。4月30日、老衰で亡くなられたという。享年八十四。矢口さんといえば、『婦人画報』編集長時代、山口瞳さんに慫慂し、同誌に「江分利満氏の優雅な生活」を連載させた編集者として名高く、婦人画報社退社後は山口さんの推挽で山口さんが勤務していたサン・アドに入社、『洋酒マメ天国』などの編集に携わった方である。
数日前たまたま積ん読本の山を取り崩していたところ、矢口さんのエッセイ集『酒を愛する男の酒』*1新潮文庫)が出てきた。訃報が記憶に残っていたこともあり、冥福を祈りつつ、この機会に読むことにしたのである。
記録を見ると本書を購入したのは2003年5月で、店は堀切菖蒲園の青木書店だった。200円。本書を購入した時、掲示板に山口瞳戸板康二らのエピソードあり。今日はこれが一番嬉しいかも」などと書いている。それから2年、ほったらかしにしていたわけだ。ついでに言えば、その後もう1冊入手しており、いま手元に2冊ある。
本書はタイトルから想像できるように、酒をなかだちにした作家や編集者仲間との交遊録といったおもむきの本で、矢口さんが常連だった新橋の酒場「とんこ亭」がよく登場する。あとがきがわりの「ひとしおの感」にあるように、この「とんこ亭」の正式名称は「トントン」といい、山口瞳さんも、戸板康二さんも常連だった。
当然戸板康二ダイジェストのふじたさんも看過していない。本書を入手されたことに触れ、「トントンは戸板康二が常連にしていたお店で、山口瞳との初対面もここだったという。と、ひさびさに『わが交遊記』のトントンの主人、向笠幸子さんのくだりを読んでいたら、…」と、トントンにつどった戸板さんや山口さん、矢口さんその他たくさんの人びとについて、簡潔にまとめておられる(id:foujita:20040405)。
おまけに拙サイトにまで言及してくださっているのが嬉しい。先日お目にかかったとき、「興味がある本をネットで検索するとたいていここがひっかかる」と揶揄気味に(もちろん冗談だと思うが)で言われてしまったが、本書もまたそんな一冊に入るのだろう。
本書に登場する人をあげれば、川田順、大木惇夫、井伏鱒二土門拳山口瞳遠藤周作伊丹十三藤原審爾風間完草野心平、土岐雄三、池島新平、扇谷正造川端康成高見順開高健野坂昭如石原慎太郎三木のり平池田弥三郎秋山庄太郎藤島泰輔戸板康二田辺茂一ドナルド・キーン岡部冬彦、福田蘭童、立原正秋阿川弘之柴田錬三郎ら、多士済々。
このなかでもっとも印象に残ったのは、池島新平だった。最後のほうに収められている「新平さん」は、急逝したさいの追悼文を意図して書かれたものであり、また、前半のほうにある「いささかワケが」では、ひところ銀座で毎晩のように池島と会った思い出が綴られている。
池島が毎晩銀座で飲み歩く理由が矢口さんによって書きとめられているが、これを読んでいると、池島新平という人物の人柄がストレートに伝わってきて、猛烈に池島信平という人物を知りたくなってくる。次に読むのは池島信平関係の本にしようと決めた。
池島新平に限らず、井伏鱒二にせよ、高見順にせよ、酒の話にことよせた上質なポルトレ集であることは間違いなく、名編集者ならではの人脈の広さ深さがこの本に凝縮されていることを知るのである。
本書に寄せられた山口瞳さんによる解説もまた、いつもながらの歯切れのいい、矢口純という人物を的確に描いた名文中の名文で、読みながらうっとりする。

根本的に、矢口さんは、お百姓さんである。もっと言えば開拓農民である。あるいは、自然を愛する人である。土と野菜と樹木と動物と魚と鳥を愛する人である。(…)自然を愛するがゆえに、やむにやまれず雑誌の編集者になった。人を愛するがゆえに、やむにやまれず「銀座の矢口」になった。こういう見方は間違っているだろうか。
いえ、たぶん間違っていないんだろうと思います。と答えたくなってしまう。
こう書いたうえで山口さんは、編集者とは「他人のファインプレイを探す職業」であり、編集者の仕事は「作家を激励すること」だとする。矢口純という編集者は「こんなに小説家を敬愛し、その作家から良いものを引き出してしまう」ことに長けているゆえ、そこに「小説家と編集者の理想的な関係」を見いだす。本書は「酒を愛する男の酒」でなく、「人と酒に愛された男の酒」だというのだ。うまいではないか。
いま手もとには、本書の姉妹編とも言うべきエッセイ集『酒の肴になる話』*2(新潮社)もある。こちらもいずれ読みたいものである。