「らくだ」くらべ

エノケンと呼ばれた男

ケーブルテレビとHDD/DVDレコーダーを導入して2週間も経っていないというのに、録りためたDVD-Rが十数枚に達し、この山が日ましに高くなっている。「こんなに録っていつ見るの?」という、およそ積ん読常習者の同居人とは思えぬ、だからこそ自覚的で意地の悪い妻からの攻撃にも耐えぬき、朝録画予約をして出かけては夜こつこつとDVDにダビングする毎日。
むろんこれは、“日本映画専門チャンネル”での成瀬巳喜男監督作品放映が最大の要因で、このためにいろいろな準備をしたのだから、DVDが増えるのは覚悟の上なのだけれど、ケーブルテレビにはほかにも映画チャンネルがいくつかあって、そちらで流される映画にも「録らねば」というのが多く、嬉しい誤算なのだった。
ケーブルテレビ設置から20日間の「お試し期間」で無料で見ることができる“衛星劇場”からは、かねて見たいと思っていた倍賞千恵子勝呂誉の「下町の太陽」や、何度かスクリーンで見る機会を逸していた市川崑監督の「おとうと」をちゃっかり録画できたし、近くこれまた垂涎の映画だった「てんやわんや」も放映されるとあって、いい時期にケーブルテレビを導入したものだとほくそ笑んだ。
日本映画専門チャンネル”と同じく追加料金不要で視聴できる“チャンネルNEKO”からは、エノケン映画2本を録画した。「とんちんかん八百八町」「らくだの馬さん」である。とりわけエノケンの「らくだの馬さん」に大きな期待を寄せていた。ことのついで、前々から読む機会をうかがっていた、井崎博之さんの評伝エノケンと呼ばれた男』*1講談社文庫)も読む。井崎さんは敗戦直後エノケン劇団に入り、舞台脚本を手がけてきたエノケンの弟子である。
さて、「らくだの馬さん」は言うまでもなく落語の「らくだ」をもとにしている。というより、歌舞伎の「らくだ(眠駱駝物語)」をもとにしていると言い換えたほうがいいのだろうか。歌舞伎の「らくだ」は岡鬼太郎作、昭和3年(1928)初代吉右衛門の久六と十三代目勘弥の半次によって初演された(平成12年11月『吉例顔見世大歌舞伎筋書』)。
いっぽうエノケンの「らくだの馬さん」は、『エノケンと呼ばれた男』巻末の詳細な「出演年譜」を見ると、昭和10年11月が舞台初演のようである。以後この舞台はエノケン当たり役のひとつに数えられ、戦後1957年に石原均監督によって映画化されたのが、今回録画したものになる。
井崎さんの本を読むと、エノケン喜劇は歌舞伎から輸入されたものが少なくないことがわかる。「らくだ」をはじめ、「法界坊」「文七元結」「研辰の討たれ」など。井崎さんはエノケン喜劇と歌舞伎の関係について、こう論じる。

といって、エノケンはこれらを歌舞伎のパロディ、としてやったのではなく、どこかが歌舞伎の本と違っているだけで、すっかり喜劇に変身させている。これは驚くほど、難しいことでありながら、認識されていない。(240頁)
わたしは落語の「らくだ」を聴いたことがない。長屋の嫌われ者駱駝の馬がふぐにあたって死んでしまう。彼の遊び仲間半次はこれ幸いと、気の弱い屑屋の久六を使い、家主に、弔いのため酒と煮染めを用意しろ、さもなければ死体にカンカンノウを踊らせると脅かす。家主が渋るのに業を煮やした半次は、久六の背中に死体を担がせ、本当にカンカンノウを踊らせるのである。
歌舞伎の「らくだ」は一度見たことがある。菊五郎の久六に三津五郎(当時八十助)の半次、死体は團蔵という顔合わせで、死体を踊らせる場面など、涙を流しながら笑ったすこぶる楽しい舞台だった。落語の場合、死体に踊らせるというあたりを身ぶりや話術で演じるのだから、どうなるのだろう。一度聴いてみたい噺だ。
それはともかく、歌舞伎の「らくだ」があまりに面白かったため、エノケンの映画「らくだの馬さん」にも大きな期待を持ったのだった。結論から言えば、面白い。でも、実際の舞台はもっと面白かったのだろうな、そんな複雑な気持ちにさせられた。
エノケンの久六、馬は盟友中村是好エノケン「馬の役は、中村是好でないと、私はできないんです」(前掲書201頁)と言っていたというほど、カンカンノウの場面などは絶妙のコンビネーションで笑った。久六を使って酒を脅し取ろうとする半次には花沢徳衛。凄味がある。さらに歌舞伎にはない役柄、長屋の隣人の貧乏侍に益田キートン(喜頓)。この益田キートンのとぼけた侍ぶりがおかしくてたまらない。
歌舞伎にはない映画の面白さとしては、時々挿入されるエノケンの歌、「クズぃー」という声をつぶした浪曲師のような屑屋の掛け声、常磐津の美人師匠の前でひとくさりエノケンがうなる常磐津節などなど、いずれもエノケンの声の芸があげられる。井崎さんによれば、エノケンは「らくだの馬さん」を演ると必ず咽を痛めていたというが(214頁)、わからないでもない。
映画を見、井崎さんの評伝を読み、エノケンの生の舞台の面白さを想像してみる。歌舞伎の「らくだ」があの面白さなのだから、エノケンの「らくだの馬さん」はどんなに面白かったのだろう。小林信彦さんや色川武大さんらがエノケンの舞台の面白さをあれだけ激賞し憧れているのがわかるような気がする。