夢の国の料理

なぞ食探偵

別に知らない町でなくともよい。近所をぶらぶら歩いていて、ふつうの定食屋の前を通ることがある。店頭のボードに見慣れないメニューが書かれているのを見つけたとき、「おっ」と思うことはあるのだが、小心者なので入ることができない。たとえ空腹で食事する場所を探していたときでも、入ったことのないお店には容易に飛び込めない。店の前をうろうろと逡巡しながら何度か往復したあげく、あきらめてしまう。“店見知り”というものか。
ひょっとしたら泉麻人さんは、こんな性分を仕事を口実に克服しようとしたのではあるまいか。文庫オリジナルの新刊『なぞ食探偵』*1(中公文庫)を読んでそんな邪推をした。
ここで言う「なぞ食」とは、メニュー名から実物を想像しがたい料理、メニュー名が何とも不思議な味わいをかもし出している料理を指す。何かのおりに店の前を通って目をつけたり、その店で一度食事したときにメニューの中に見つけたものの、そのときは別の料理を注文したりして、気になっていたような料理の食べ歩きコラムだ。
「なぞ食」の最たるものは、国名・地名が冠されている料理。ドイツ風ライス、品川丼、セイロンライス、アキバうどん、スマトラカレー、台湾メン、原宿ドッグ、千寿揚げ、多摩辨、麻布ライス、羽田そば、品川蕎麦、トルコライスなどが紹介されている。それぞれの料理には、そう名づけられたそれなりの理由がある。しかしいまとなっては由来がわからなくなっているものもあるし、中味が先にできて、名前は「付けたもの勝ち」で付けてしまえという動機のものもある。
そのほか、組み合わせの妙で食欲を刺激される料理。洋風カキアゲ、とんかつ茶づけ、天サンド、純レバ丼、すじ玉丼、カニヤキメシ、コロッケそば、とんぷらライス、かつめし、おでんきしめん、串勝カレー、梅豚うどん、パンカツ…。
本書はいわゆるB級グルメの食べ歩きではあるけれど、実のところ「アンチ・グルメ本」と言ってもよい。グルメ本に不可欠の情報が欠如しているからだ。むろん店名、メニュー名という最低限の情報は示されている。しかしながら店の住所・地図、メニューの値段などはまったく紹介されない。グルメ本としてこれまた必須と思われる料理写真すらなく、代わりに泉さんご自身の色鉛筆による素人イラスト(なかなか味わいがあって好きだ)が添えられる。
店に入ろうかどうしようか、入ってそのメニューを頼もうかどうしようか、迷ったすえに清水の舞台から飛び降りるような気持ちで頼んでみる。はたして食べたら大正解。とてもおいしい。「なぞ」めいた名前から実物を想像し、出てきた料理を愉しむ。そんなスリルがありながら、肝心な情報がないことで、どこか夢の国の料理でもあるかのようなファンタジー気分になる。不思議な「グルメ本」なのだった。
本書を読んで興味深く感じたのは、信州伊那がなぞ食の宝庫なのではないかという推測。本書でもローメンソースかつ丼が紹介されており、また、スマトラカレー生みの親が伊那出身ということから、伊那の風土的特徴としての「なぞ食」という結びつきが想定されている。面白い。
ちなみにスマトラカレーというのは、言うまでもなく神保町のカレーの名店共栄堂の看板メニュー。あの黒くてほろ苦いカレーは私も大好物だ。本書で紹介されていた「なぞ食」のうち、私が食べたことがあるのは、スマトラカレーのほか、千葉さんのカツカレー、コロッケそば、辛来飯、牛とろ丼の5品。食べたいと思った料理は数え切れないほどある。