小林信彦における素材と調理方法の研究

回想の江戸川乱歩

退屈男さん「『夢の砦』の記憶が薄れないうちに」という強いプッシュもあって、小林信彦『回想の江戸川乱歩*1(文春文庫)を読んだ。200頁に満たない薄い本なので、興に乗ったらひと晩で読み終えてしまった。
本書は新刊(97年5月)で買ったのだが、未読だと思う。たとえ読んでいたとしても、忘れているのだから初読と同じこと。97年と言えばまだ仙台に住んでいたころで、当時は喫煙者だったうえ、東京に来てから本書は廊下に置いてある文庫棚に入れていたせいか、小口あたりの紙がすっかり茶色に変色し、湿気も含んでしまっている。文春文庫の紙はお世辞にも良質とは言えない。
まあそんなことはどうでもいい。本書には、小林信彦・泰彦兄弟の対談「もう一人の江戸川乱歩」に、信彦さんのエッセイ「回想の江戸川乱歩」、短篇「半巨人の肖像」、泰彦さんによるイラスト「江戸川乱歩邸応接間の図」*2が収められている。解説は坪内祐三さん。97年当時私は坪内祐三という名前を知らなかった。
さて、対談や「半巨人の肖像」を読み、そこで描かれる乱歩像(短篇では乱歩は氷川鬼道という名前に変えられている)や小林さんとの関係を知ると、長篇『夢の砦』は実体験をうまく料理してフィクションに仕立てていることがわかって興味深い。
『夢の砦』を読み出してまず頭をひねったのは、主人公を出版社に採用した、出版社の金主にして老推理作家城戸草平が乱歩なのかどうかということだった。しかし読み進めるうち乱歩本人も登場したり、作家の性格や彼の作品などが乱歩とかけ離れていることから、乱歩とは別人だと判断して最後まで読んだ。小林さんは『回想の江戸川乱歩』の元版あとがきで次のように書いており、私の判断は間違っていなかったことがわかる。

ぼくの「夢の砦」に出てくる老推理作家を江戸川乱歩と思い込んだ人がいるからで、シチュエーションからみて仕方がないかも知れないが、ぼくは明らかに別な作家をイメージして書いている。妙な知ったかぶりをする中途半端な玄人がいるから困る。
だとすればその「別な作家」とは誰なのか。次に思い浮かべたのは、名前から類推できる宝石社社長の詩人城昌幸である。兄弟対談で信彦さんの口から「例の『若さま侍捕物帖』の作者でね。『若さま侍捕物帖』は、大川橋蔵主演で年に二度映画になるので、その原作料で彼は食べられたんですよ。当時は何もしてなくて、着流しで、昼間から酒を飲んでましたね(笑)」と語られている。
たしかに城戸草平に関し旧作の映画化原作料でお金があるという挿話は『夢の砦』にあった。しかしその対談の別の箇所や、私の記憶する乱歩と城の関係を考えれば、これまた微妙に違うような気がする。そこで例の『夢の砦』元版附録の談話に目を転じてみる。
ぼく自身は江戸川乱歩さんの紹介で小出版社に入ったのですが、作品の中の小出版社はアンチ江戸川派です。当時、江戸川乱歩と並び称せられるような某大家がいて、その人の名前がつく派の新人を抱えて、ある雑誌に拠っていたという事実はあったのです。その頃のことを知っているのは当時推理雑誌の編集に携わっていたはずの色川武大さんくらいでしょう。
この「乱歩と並び称せられるような某大家」がわからない。木々高太郎なのか。でも当時乱歩に対抗する推理作家がいて、彼の下に○○派というグループが形成されていたという「事実」は、寡聞にして知らない。いずれにせよ作者の証言によれば、『夢の砦』の城戸草平像は、乱歩・城昌幸・某大家という少なくとも三人の人間が組み合わされていることになる。
そうした複雑なモデル問題をあれこれ考えながら『回想の江戸川乱歩』を読んでいたら、頭が混乱してしまった。「半巨人の肖像」には『夢の砦』に登場する敵役「ゴム仮面」そのままの人物も登場するなど、『夢の砦』の骨格をなしていることがわかる。元版附録と坪内解説によれば、『夢の砦』の元になる作品は1971年に書かれた未発表の「男たちの道」という中篇で、この作品の素材を生かし、前半部分のみ「半巨人の肖像」として書き直され発表された(初出『新潮』1971年6月号)という。
「半巨人の肖像」の場合、乱歩=氷川鬼道の事績周辺については、固有名詞を置き換えただけで事実にかなり忠実であるような気がするけれど、元版あとがきには「作中の脇の人物たちは、二、三人を混ぜて一人に合成している」とあるから、まったく事実そのままでもない。その手法をさらに発展させ、ふくらまされて『夢の砦』ができあがったわけである。
だからといって『夢の砦』が事実とかけ離れているかと言えば、これもそうではない。前記城昌幸ポルトレにあるように、兄弟対談で語られている「事実」が大きく損なわれずに取り入れられているのである。
他の「自伝的作品」を考えるさいにも敷衍できると思われるが、小林信彦という作家は、生の素材に何ら手を加えず読者に供するのではなく、かといって生の素材をその原型がわからなくなるほど切り刻んでしまうわけでもない。生の素材があれば、その原型をできるだけ崩さぬように調理し、供されたものは一見生のように見えるものの、実は素材にしっかりと下味をつけているため口にしたとき驚くような料理を作る料理人のようだ。
『回想の江戸川乱歩』は『夢の砦』を読んだあとに読むのがのぞましい。でないと、『回想の江戸川乱歩』で語られている「事実」に強く規制され、フィクションとしての『夢の砦』を読むときの想像力を阻んでしまうような気がするからだ。

*1:ISBN:4167256053

*2:昨年の乱歩邸公開で、このイラストそのままの応接間を実見することができたのには感慨をおぼえた。