復興する大阪の町

新日本探偵社報告書控

小沼丹作品のような身辺の出来事を小説化した世界への傾斜はそのままに、このごろそれと対照的な世界、すなわち趣向を凝らした小説への興味も再燃しつつある。書き手としては丸谷才一井上ひさし小林信彦筒井康隆といった面々。丸谷さんの小説こそ最近読んでいないものの、ほか三人の作品はここ一、二か月の間に読んで、あらためて魅せられた。
その勢いで筒井康隆『新日本探偵社報告書控』*1集英社文庫)を読んだ。文庫に入った直後に購入したものの*2、未読のまま処分し、今年の夏、古本で買い直したのだった。
未読の理由はわからないでもない。興信所によるカタカナ混じりの調査報告書の「引用」が主要な部分をしめるそのスタイルが、筒井ファンの私をしても容易に感情移入することを阻んだのだった。今夏古本で買い直しながら読まずにいたのもそうした理由にほかならなず、このところの「拵え物」小説への再燃がなければ、またしばらく放っておかれることになったかもしれない。
本書は、敗戦直後まだ焼け跡の残る大阪に興信所「新日本探偵社」を設立した辰巳秀雄を主人公に、彼の事務所が行なってきたさまざまな調査の報告書と、彼の事務所に勤務し通り過ぎていった調査員たちの姿を即物的に叙述する。
私立探偵ときくと、明智小五郎金田一耕助のような、迷宮入り必至の殺人事件をあざやかに解決にみちびく名探偵か、もしくは浮気調査をするような裏稼業という両極端なイメージしかなかった、しかし本書を読むと、大企業から中小企業に至る顧客を獲得し、彼らと取引のある企業の信用調査や、求人に応募した人物の雇用調査、婚約相手の家庭調査など仕事は幅広く、取引の可否、雇用の採否、結婚の可否などまで踏み込んだ判断を下す、いわばシンクタンクと言ってよい重要な役割を果たしていることを知った。
本書はあらゆるたぐいの報告書を柱に、依頼を受けるに至った経緯、調査に携わった調査員の性格描写などを間にまじえながら展開する。年代的には昭和20年代から50年代まで長期間にわたるが、もっとも多いのは昭和20〜30年代のもの。カバー裏の内容紹介に「求められた調査報告から浮かび上がってくるのは、敗戦後の荒廃から復興する街の姿、そのなかに覆いかくされた暗部の数々」とあるが、まさにそのとおり。最初は取っつきにくかった報告書も、読めば読むほど旨味が出てくる。
カタカナ混じりで記録された報告書の行間から見えてくるのは、松本清張砂の器』と通じあう大阪の戦災のありさま、またそこから復興してゆく商都大阪の活気、そのなかで暗躍しひと儲けを企もうとする何やら胡散臭い人物たち。もっとも、胡散臭いのは調べられる側だけでなく、調べる側もまた然り。

資金繰りにあわただしくない会社や商店はほとんどなく、支払いの少しの遅れや納品の遅れが業界に噂となって流れ、そこから倒産まではまたたく間であり、それが大阪であった。(72頁)
直接辰巳が担当せず、部下に調査させた人物であっても、調査報告書の行間から臭気が立ちのぼってきそうなほどの個性がうかがえる相手も数知れずあった。(207頁)
「行間から臭気」というのは本書所載の報告書、いや本書全体の雰囲気を見事に言いあらわしている。
婚約相手の素行調査で否定的報告を行なうことは、ある意味当事者の人生を左右することにつながる。そこから日本的な共同体のあり方が鋭くえぐり出される。
本人がいかに好ましい人物であっても、家族のみならず親戚までが調査の対象となり、破談の原因になってしまう多くの事実は、辰巳秀雄に何度も「これが日本なのだなあ」と考えさせてしまうのだった。そのような制度に加担している自分を辰巳は皮肉に感じ、つい「新日本探偵社」という社名を思い返して失笑するのである。(273頁)
ところで本書の扉裏に「従兄・筒井敏夫へ」の献辞があり、巻末の「作者後記」に「文責は作者に帰属し、資料に関する質問に対しては之に応じない」の一文がある。これから推せば、筒井さんの従兄が現実にこうした職業についており、彼をモデルに作品を仕立て上げたのだろうか。作中、「辰巳の従弟にあたる康夫という高校生も遊びに来ていた」(43頁)という気になる一節があって、世代的にも、名前からもこの「康夫」という人物が筒井康隆さん自身であることを暗示しているように思えて仕方がない。
だとすれば、本書に「引用」された報告書は実在するのだろうか。それとも筒井さん一流の虚構によるトリックなのだろうか。いずれにしても、献辞・作者後記の存在によって、読者は、この作品がリアリズムとフィクションという二つの世界のいずれに属するのか、足元の見えない暗闇を歩いているかのような不安感に包まれるのである。ただ確実に伝わるのは、戦災から復興する都市大阪のエネルギーと、バイタリティあふれる大阪の人びと、それらの裏側に貼りついて離れない日本社会の因習なのだった。

*1:ISBN:408749702X

*2:文庫化が91年4月、購入は同年7月29日。