満席になった「雁」

「雁」(1953年、大映
豊田四郎監督/森鴎外原作/高峰秀子芥川比呂志東野英治郎宇野重吉浦辺粂子飯田蝶子三宅邦子

この作品を観にゆくので、朝起きてから慌てて鴎外の原作(テクストはちくま文庫版『森鴎外全集4』ISBN:4480029249)を読み始めたのだけれども、約半分までたどりついたところでタイムアップ。映画を観てから原作を読むか、読んでから観るか迷いながら、後者を選択したのだったが、いかにも中途半端だった。
もっとも主人公のお玉が高峰さんで、彼女が恋心を抱く帝大生の岡田役に芥川比呂志ということはわかっていたから、「読んでから観る」もないものだ。テクストを読んでもイメージはあの二人が。
それにしても明治の無縁坂がしっとりと描かれて絶品の文芸映画だった。14時開演(13時30分入場)で、13時過ぎにフィルムセンターに入ったら、すでに大行列、待っている人は200人を超えて私で230番目あたりだった。座席数は310で、入場時間の13時30分頃に来た人はすでにアウトになる満席。初めての体験だ。土曜日ということもあろうけれど、「そんなに「雁」という映画はいいの?」と訝しんで観たら、さすがに満席になるだけの映画だったと納得した。
お玉を妾として無縁坂の家に囲う高利貸しが東野英治郎。これもまたはまり役なのだ。そうだよな、こういう役はこの役者さんしかいないよなという感じ。東野の妻役に浦辺粂子さん。これまたはまり役。雨の無縁坂に傘をさしてたたずむ姿が鬼気迫って怖い。岡田の同級生に宇野重吉。てっきり私は高峰の父親役かと思っていた。私は晩年の老けた宇野さんしか知らないからだが、当時はまだ学生役ができるほどの若さだったのだ。
帰宅後高峰さんの『私の渡世日記(下)』をめくると、あの無縁坂はすべてセットだったというのに驚いた。いまでも無縁坂はあまり人通りが多くなく寂しい雰囲気なのだが、これは片側がすべて岩崎邸ゆえ。明治のむろん舗装されていない無縁坂と、下りきった先にある不忍池にただようしめっぽい雰囲気が何とも素敵だ。赤門前にある学生相手の高利貸し(店主が東野)と古本屋のたたずまいもいい。来週の昼休み、さっそく無縁坂散歩だな。
ところで『私の渡世日記(下)』には、「雁」撮影時のエピソードが二つ、書きとめられている。一つは、家の中をお玉がのたうちまわるシーンで、高峰さんがカメラマンの三浦光雄に「どこいらへんまで行きましょうか?」と訊ねると、「どこへでもご自由にどうぞ。追いかけて撮すのが私の仕事ですから」と答えられた話。
いまひとつは、無舗装でごつごつした無縁坂のセットのうえで、芥川比呂志の歩く姿が千鳥足でギクシャクしていたのを不審に思った高峰さんが芥川に声をかけると、「だって僕、板の上しか歩いたことないんで」と言われた話。芥川は本物の石ころがゴロゴロしているリアルな道を歩いて演技するのは初めてだったという。
いい映画には、それに比例していい挿話が付きもののようである。