小沼丹を読んでリラックス

小沼丹全集第二巻

いま未知谷から小沼丹全集』全四巻が刊行中である。第三巻まで出ているようだが、懐具合と相談してまだ第二巻*1までしか購入していない。全四巻とはいっても一冊がA5判一段組700頁を超える函入の大冊である。家にはすでに置き場がなく、重いから持ち帰るのも億劫なので、生協書籍部で買って職場にそのまま置きっぱなしにしてある。せっかくだからと、先日来仕事の合間合間に函から取り出して作品を少しずつ読み進めている。これがまた恰好の気分転換になっていい。
第一巻は小沼さんがまだ「お話」をつくることに傾いていた初期の作品集で、単行本としては『村のエトランジェ』『白孔雀のゐるホテル』『黒いハンカチ』『不思議なソオダ水』を収録しているが、個人的には身辺の出来事を小説化したいわゆる“大寺さん物”が好きなので、第二巻から読み始めることにした。こちらは『懐中時計』『銀色の鈴』『更紗の絵』『椋鳥日記』を収める。このうち『懐中時計』*2『椋鳥日記』*3講談社文芸文庫に入っていて既読。『更紗の絵』が長篇だったとは知らなかった。
既読ではあるが“大寺さん物”を多く含む『懐中時計』を始めから読み直し、いま未読だった『銀色の鈴』にワクワクしながら入ってその途中まで読み進めている。“大寺さん物”でない短篇も、たんに主人公の名前が大寺さんでないだけにすぎない。そのユーモアのセンスは相変わらずで、読んでいると肩のこりもほぐれ、気分も軽くなってくるような感じになるのだった。
肩の力を抜いたような飄逸な味わいのまことに愉しい作品群ではあるけれども、“大寺さん物”は妻や友人の死など、「死」の姿が色濃く投影されていることをあらためて認識する。この点は以前『木菟燈籠』を読んださい(旧読前読後2001/12/4条)にも指摘ずみのことだが、死を語りつつも、それと裏腹に作品中にただようユーモアの気品の良さに酔わずにはいられない。
『銀色の鈴』所収の「猫柳」という短篇がまた素晴らしい。自身がモデルであるとおぼしい主人公の「僕」と、ときどき散髪に行く近所の床屋の親爺が織りなす会話が絶品。親爺がサマセット・モオム(小沼さんは断じて「モーム」ではない)似だなんて表現に頬がゆるんでしまう。全集版でわずか15頁の小品なのだが、お茶屋に嫁いでいた親爺の妹が亡くなり、代わりに長女が嫁いで孫まで生まれ、いっぽうの「僕」は、病気で入院し妻が亡くなるといった時間の移り変わりが見事に凝縮され、何だか長篇を読んだ気分にさせられたのである。
再読でもあり、とくに『小沼丹全集』を読んで何か書こうというつもりはなかったのだけれど、上記「猫柳」を読んだら、無性に小沼丹を称揚したいという気持ちになってしまったのだった。
装幀の布の手ざわりやページをめくるときに紙の間からただよってくる本の香りも素敵で、持ち重りの感触といい、ああやっぱり全集は素晴らしい。