詩作から遠く離れて

伊良子清白

平出隆さんの『伊良子清白』*1(新潮社)を読み終えた。
新刊で出たとき(2003年10月)、手にとって造本の美しさにため息がもれた。愛読する平出さんの著書であるとはいえ、伊良子清白という対象をまったく知らなかったことと値段の高さ(本体5600円)ゆえに二の足を踏んで買わなかった。しかしこのところの平出本への関心の高まりと、『日本文学盛衰史』を通じての伊良子清白という人物への興味が相まって、値段というハードルをあっさり跳び越えてしまった。
それにつけても造本が素晴らしい。グレーを基調にした函に角背の二冊の本が双子のように収まっている。清白の「日光月光」という詩篇に由来したとおぼしい『月光抄』『日光抄』と名づけられた二冊の本はいわば上下巻という関係であるが、それぞれ表紙の紙に光をあてると微妙な玉虫色に変化する美しさで、直接手で触ることがはばかられる。しかもいずれも192頁と同じページ数で、見事なシンメトリイをかたちづくる。活字はむろん精興社。すべての点にわたり本造りへの配慮が行き届き、これほどの美しさを表現した本は近年出た本のなかでナンバーワンと評したい。
内容も造本と値段に負けていなかったのが嬉しい。約200篇から選りに選ってわずか18篇の詩を収めた詩集『孔雀船』一冊を世に出しただけで詩壇から忘れ去られた明治の詩人伊良子清白の一生を、その詩と遺子に遺された厖大な日記(26年分25冊)を読み解きながら描いた評伝文学の佳品である。
河井酔茗・横瀬夜雨とともに雑誌「文庫」に拠り、「文庫」派詩人の代表と目されながらも、処女詩集『孔雀船』の上梓を待たず東京を離れ、以来山陰・台湾・志摩と漂泊を続けながら一生を終えた清白。京都医学校に学び検疫医・保険会社検診医・役所の検診医など医師としての職業も転々とし、最終的に志摩のさびれた一漁村の村医となって赴任する。
浪費癖のあった父の抱えた莫大な負債に翻弄され、幼くして伊良子の家の家長となり家を支えなければならなかった。母は清白生後11ヶ月のとき、20歳にしてこの世を去る。生涯面影を知らぬ母の像を追い求めてやまなかった。多忙な村医の仕事のかたわら、自らも胃カタルの持病を抱え、また艱難辛苦をともにした前妻・後妻の病気に悩まされ、子供たちの素行不良の対応に追われる毎日。癇癖が強く、怒るとちゃぶ台をひっくりかえすような頑固親父であったらしい。
詩を志した清白が、処女詩集上梓を目前にしてなぜ詩作を抛ち漂泊に身をさらす生活を選んだのか。詩作を廃したいという思いは詩作に携わる人間だからこそ共感しうる。平出さんは、自らの詩作を廃したいという体験を重ね合わせ、清白の謎に迫ろうとする。

詩人というあやふやな存在は、雲に梯子を掛けるような仕事をしている。だが、果してそれが現実に対して価値をもつものかどうか、証明はいつも困難を極める。そのために、詩人たちによる評言もまた、つねに現実を大いに欠いた場所を生み出す。その欠如の中へ、詩史に席を求める功名心が流れ込む。さらには追放と忘却をもたらす力の奪い合いが起る。(『月光抄』43頁)
かくして清白は「詩史に席を求める功名心」への挫折から「追放と忘却」の彼方へと自ら歩み去った。前篇『月光抄』は『孔雀船』上梓を待たず山陰浜田に居を移すべく都を離れたところで終わるから、後篇『日光抄』は、大半が詩壇を離れた一医師の後半生の足どりを追うことに終始する。日記をもとに仕事と家庭生活の軋轢に追われる医師の日常茶飯が淡々と記述され、その堆積が、詩作を離れた詩人のさびしさを際だたせる。
ただ、生前不遇のままというわけではなかった。大正末年に発表され昭和4年にまとめられた日夏耿之介『明治大正詩史』が多くの紙数を割いて清白再評価を行ない、同年『孔雀船』が覆刻され、一躍詩壇の注目を集めることになる。円本の気運にのった詩人選集に詩が収録され、現代詩における清白の位置づけは揺るぎないものになった。しかし清白は漁村の一村医たることから動こうとはしなかった。一人の詩人の創作活動と現実生活の相克が克明に描かれ、一人の人間の一生とその成果物たる詩篇に対する批評のバランスが絶妙に配分された評伝だった。
清白の詩は客観に傾いた叙事詩たることに特徴がある。詩=抒情詩というイメージに凝り固まった私にとって、清白の詩から清新な印象を与えられた。今春重版されかろうじて売れ残っていた『詩集 孔雀船』*2岩波文庫)をあわてて買い求め、これからその傑作群を玩味しようと思う。100頁をわずかに超える程度の薄い文庫本に彼の創作活動が凝縮されている。
その詩集は「故郷の山に眠れる母の霊に」捧げられ、冒頭に配された「漂泊」は次の一連から始まっている。
蓆戸に
秋風吹いて
河添の旅籠屋さびし
哀れなる旅の男は
夕暮の空を眺めて
いと低く歌ひはじめぬ