東京っ子のたたずまい

東京っ子ことば

林えり子さんの『東京っ子ことば』*1(文春文庫)を読み終えた。本書については、元版*2が出たときにも書いた(旧読前読後2000/9/25条)。ただこのときは、新聞広告で見て気になった直後に書店で出会い、めくったら戸板康二幸田文といった名前を目にして即購入という出会いまでを述べたにすぎなかった。
その後も本書に何度か触れてはいるが、読んでの感想をきちんと残していたわけではなかったようである。元版が出たおりにも、また本文庫版が発売されたときにも、この本のことがあまり話題になっていないように思われたので、あらためて本書を取り上げたい。なぜならば本書は名著であると信じて疑わないからだ。
文庫版解説の福原義春さんによれば、林さんは14代続いた御府内住まいの江戸っ子。湯島に生まれ白山上に移る。父方の屋敷は切絵図に載るほどで、五代前には国学者小山田与清、大おじに早大総長の高田早苗、別の大おじ二人は彰義隊士で上野で戦死、祖母は加賀様(前田家)のお屋敷で御殿お女中をしていたという筋金入りの江戸・東京っ子である。
林さんご自身は戸板康二さんに師事する。本書のもとになる文章を『銀座百点』に連載中戸板さんが急逝した。それに触れた一章「えっとこさ」では、連載にあたって戸板さんから受けたアドバイスが書きとめられている。

えり子さんは本郷で生まれ育ったのだから、東京っ子でも山の手っ子だね。東京ことばというと下町のべらんめえ調だと、大方は思っているけど、それだけじゃない。ぼくは池田(故人の弥三郎氏、銀座の人―原注)と仲が良かったけど、ことばだけは、肌が合わなかった。あなたが書くとなれば、山の手ことばに徹したほうがいいね。(30頁)
本書は絶滅の危機に瀕している東京っ子ことばを取り上げ、そのなかからかつて東京にたしかに存在した江戸・東京っ子の気風、たたずまいを浮かび上がらせる。取り上げられたことばは五十音順に配され、そのことばをめぐる思い出話や思い入れが、古人の所説(岡鬼太郎岡本文弥ら)や古文献(古川柳・江戸の戯作・芝居の台詞など)を駆使して彩り豊かに述べられる。
名著たるゆえんは、各章がそのタイトルになっている言葉だけを取り上げたのみにとどまらず、頭文字を共有する東京ことばがたくみに配され、きわめて巧妙に練り上げられたものになっていることだ。たとえば「みみだらい」の章。「みみだらい」とは、「東京のどこのうちにもあった金盥の一種」だが、自分が育った家庭の思い出話を展開しつつ、「みょうちきりん」「みじっかい」「水菓子」「みみっちい」という「み」で始まる東京ことばが文章中に織り込まれ、読みながら唸らされる。
こんなことばの話のなかから、「威勢のいい啖呵を切るくせに、自分のこととなると、からっきしいくじがなくなる。滔滔とお国自慢する相手を前にして、こっちだって言いたいことは山ほどあるのに、何も言えずに、しゃっちこばっている」という東京っ子の姿が生き生きと立ちのぼってくる。
父の下駄を買うため銀座の履物屋におつかいに出された少女時代の林さん。母から「鼻緒はせいひつ色って言うのよ」と念を押されそのとおり口上を述べたところ、履物屋のおやじさんは、
「せいひつ色だなんて、嬉しいねえ」
とにこりともせずに答え、棚の箱を引っぱり出した。(93頁)
という。「嬉しいねえ」と言いつつにこりともしないのが東京っ子の立ち居ふるまいなのである。ちなみに「せいひつ色」とは「青漆色」、「せいしつ色」の東京訛りである。

*1:ISBN:4167679116

*2:ISBN:4062103346/元版の書名は『東京っ子ことば抄』