戦中派三人組

定年なし、打つ手なし

小林信彦さんの『週刊文春』人気連載「人生は五十一から」の新刊本を書店で見かけた。小林さんのコラム集の新刊と旧刊の文庫化が年中行事化して、春になると「そろそろかな」と待ち遠しくなることがある。今年はその前に別の新刊エッセイ集『定年なし、打つ手なし』*1朝日新聞社)が出たので、そちらを先に読むことにした。
本書は三部構成になっている。第一部が書名にもなった連載エッセイで、2003年から今年2月まで『一冊の本』に連載されていた。作家という自営業者の立場から、現在の老人問題についての考察がなされる。若い頃にどういった将来設計を持っていたのか、作家という人びとが抱いている老後の暮しの理想像などがわかって面白い。巷にあふれる「老後対策」のハウツー本を買い込んで勉強したという成果がここで示される。
第二部は書評や自著に関するエッセイ、文庫解説などを集めた「作家論」と、〈笑い〉や芸人について書かれたエッセイを集めたもの。主として90年代以降に書かれたエッセイで単行本未収録のものが落ち穂拾いのごとく集められている。これらの落ち穂がまたいずれも充実したもの。
異色なのは1969年に『放送朝日』に発表された「テレビにとって〈笑い〉とは何か」で、これは外国や日本のコメディを素材にギャグを分析する多少硬めの論文である。第三部は「人生は五十一から」に通じる現代社会批評文によって構成される。これもまた最近いろいろな媒体に発表された文章を集めたものだ。
小林信彦さんの文学論(作家論・作品論)、ひいては文章には中毒性があって、続けて小林さんの本を読みたくさせられたり、また、小林さんが触れている作品を読みたくなったりする。今回もそうだった。第二部を読んで、小林さんの『ちはやふる奥の細道』を古本屋で探そうと志し、最近ちくま文庫から出た山田風太郎の忍法短篇小説が気になったり、谷崎をまた読みたくなった。さらに藤原龍一郎さんの影響でずっと気になっている『楡家の人びと』がいよいよ射程圏内に入り、三島や太宰も読みたくなる。
先日ラピュタ阿佐ヶ谷で、岡本喜八監督の次回作が山田風太郎の「幻燈辻馬車」に決まったという情報を知った。その直後本書で次のような文章を目にし、この二人の結びつきもありうるのだと感心した。

そのころ、ぼくはまだ日本映画を観ていたが、岡本喜八鈴木清順といった〈戦中派〉の監督は必ず戯作的作品で登場していた。そして、彼らがマジメな映画(世代論的なもの)を作ると、批評家は初めてホメた。岡本喜八にもっとも顕著なのだが、世代論的作品を作ると、観客はみごとに遠ざかり、批評家はますますホメる。(83頁)
山田風太郎と〈うめき声〉」という山田風太郎論の一節である。山田風太郎に即せば、戯作的作品=忍法帖/マジメな作品=日記という関係にあたる。戦中派という点で二人がつながるのだ。その果てに「幻燈辻馬車」があるとなると、見逃せない。
思い返せば「戦中派の権化」と言われる山口瞳さんの出世作江分利満氏の優雅な生活』を映画化したのが岡本監督。山田−岡本−山口という三人が一本の線でピンとつながった心地よい瞬間だった。